デ・キリコ展 | パラレル

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東京都美術館で開催中の「デ・キリコ展」へ行って来ました。


デ・キリコはイタリア人の両親のもと、ギリシャに生まれます。

ミュンヘンの美術学校で絵画を学び、ニーチェなどのドイツ哲学に影響を受けた彼は、1910年頃から歪んだ遠近法や、一見すると脈絡なく配置されたモティーフを駆使した幻想的な雰囲気をまとった作品を描き始めます。

後に「形而上絵画」と名付けられたこれらの作品は、サルバドール・ダリやルネ・マグリットといったシュルレアリスムの画家をはじめ、あまたの芸術家に衝撃を与えてました。

1919年以降は伝統的な絵画技法へ関心を寄せるようになりますが、それと同時に形而上絵画も制作し、さらに彫刻や版画、舞台美術の世界にも活躍の場を広げます。

生涯を通じてその創作意欲は衰えを知らず、90歳で没するまで旺盛な活動を続けました。

 

本展は、およそ70年にわたる幅広い創作活動を紹介するもので、初期から晩年までの絵画を中心に、彫刻や舞台衣装も展示するものです。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

SECTION1 自画像・肖像画

SECTION2 形而上絵画

                 形而上絵画以前

2-1 イタリア広場

2-2 形而上的室内

2-3 マヌカン

SECTION3 1920年代の展開

SECTION4 伝統的な絵画への回帰

                 ー「秩序への回帰」から「ネオ・バロック」へ

SECTION5 新形而上絵画

TOPIC1 挿絵ー

             〈神秘的な水浴〉

TOPIC2 彫刻

TOPIC3 舞台美術

 

デ・キリコは、生涯において何百枚もの自画像を描きました。

その連続的な様式の変遷のうちには、画家がおよそ70年もの長きにわたる芸術活動の過程で少しずつ追い求めてきた各時期の研究成果がありありと見てとれます。

 

人間の容姿へ関心を寄せ、人物をめぐる内省的な思索を深めた画家は、図像学的なモティーフの微細な練り直しにも鋭い洞察力を発揮しました。

こうして生み出されたのが、友人、注文主、親族、そして理想化された人物などを描いた膨大な量の肖像画群です。

総じて不穏な顔をしたこれら肖像画群のギャラリーは、私たちの心をただ惹きつけるにはとどまりません。

それぞれの肖像画は、この種の絵画ジャンルを内部から強化して修正する試みなのであり、そこには、美術史の参照、情緒的で私的な場面の設定、そして彼が果敢に取り組んだ美的かつ形式的な概念の探究が見てとれます。

 

会場入ってすぐのところに展示してある《自画像》(1922頃 トレド美術館)は、デ・キリコが古典絵画に傾倒していた1922年頃に描かれた自画像です。

画家の前には、古代彫刻風の理想化されたデ・キリコ自身の肖像彫刻が置かれています。

本作においてデ・キリコは、古代彫刻から学んだ過去の巨匠たちのように、歴史と対話して制作する画家として自身を表しています。

 

《17世紀の衣装をまとった公園での自画像》(1959 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団)のような衣装をまとうバロック的な肖像は、同時代の前衛芸術家たちが排除してきたものです。

デ・キリコはあえてそれを描くことで、自身を認めない他の芸術家や批評家に対して挑戦状を突きつけています。

加えて、こうした自画像は舞台美術を念頭に置いたものでもありました。

 

デ・キリコが形而上絵画を発見したのは、1910年、長い創作の危機を経た末のことでした。

ミュンヘンの美術学校での学びを放棄してミラノへ赴き、アルノルト・ベックリンとフリードリヒ・ニーチェの思想から着想を得た絵画を実験的に制作します。

フィレンツェに住まいを移した1910年の初頭にはほとんど絵を描きませんでしたが、ニーチェの哲学書や、文化雑誌『ラ・ヴォーチェ』に掲載されたジョヴァンニ・パピーニやアルデンゴ・ソッフィチらの批評を読み耽りました。

ジョットと初期ルネサンスの絵画、そして「税関史ルソー」こと画家アンリ・ルソーの発見こそが、神秘と詩情に満ちた新たな絵画の着想源でした。

デ・キリコの形而上的な創意の核心は、詩的で美的な様式を丹念に作り上げたことだけにあるわけではありません。

むしろ、それまでに彼が制作した作品とは明らかに不連続な、全く新しい表現方法を生み出したことにあります。

こうした斬新さは、作品の内容のみならず、前例のない新たな絵画技法を採用する独創的な表現力からもたらされました。

 

《山上への行列》(1910 ブレシア市立美術館)は、デ・キリコがベックリン風の作品から形而上絵画へと舵を切る直前に描いたもので、両者をつなぐ作品です。

初期の形而上絵画にはルソーの影響が見てとれますが、本作の着ぶくれしたような人物像や、人けのない荒涼とした風景などの原始的で素朴な要素にも、すでにルソーの影響がうかがえます。

 

デ・キリコは1912年から翌年にかけて、アリアドネの像のあるイタリア広場をいくつも描いています。

ギリシャ神話の登場人物であるアリアドネは、敬愛するニーチェの詩から着想を得た主題でした。

《沈黙の像(アリアドネ)》(1913 ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館)では、アリアドネの像が非常に接近して描かれ、以前のイタリア広場よりも奥行きが狭くなり、この後の形而上的室内の構図へと近づいています。

 

第一次世界大戦のため、デ・キリコは兵士としてパリからフェッラーラに移り住みました。

移住にともなって生まれた新たな思索は、結果として彼の絵画に新たなアクセントを付与することになります。

1915年の絵画は、様々な省察の狭間で揺れ動いています。

パリ時代末期の「アポリネール的」形而上学に由来する情景が「拡大」され、場面をさらに極力、閉所恐怖症的なものとする細部をもって間近に迫り、クローズアップされた視野が背景を占拠します。

従来の遠近法で捉えられた船の底板や劇場舞台の切り立ったイメージに加えて、フェッラーラのルネサンス様式の教会のファザードや公爵の城の一端などが稀に姿を現すようになります。

同地の建築物は、過去に描かれた「イタリア広場」に並んでいた堂舎にとって代わり、メランコリックな別離と、建築の突飛なノスタルジアの感覚を更新しました。

とりわけ事物は、ここにきて本質的な変化を見せ始めます。

あらかた不明瞭で謎めいたパリ時代の事物は、ありふれた糸巻き、ビスケット、色付き紙の箱へと変容していきます。

突飛な印象に変わりはありませんが、諸要素はパリ時代とは異なる「図像」から、つまり素朴で雑多な事物が所狭しと出鱈目に並べられた、フェッラーラのような地方都市の店先にある埃まみれの眠たげなショーウィンドウから引き出されています。

つまるところ、デ・キリコは新たな眼差しをもって着想の糸を編み直そうとしているのです。

 

1914年のデ・キリコの作品は、遠近法が破綻し、空間が認識しづらいものになっていきます。

《運命の神殿》(1914 フィラデルフィア美術館)でも、広場の空が最上部からわずかに覗いているだけで、前景は黒板や人物像などの物が埋め尽くしています。

そこには、予言や魔術に関する古文書から着想を得た神秘的な絵文字と、現代の速記符号が同時に表されており、古代性と現代性が同居しています。

 

《福音書的な静物Ⅰ》(1916 大阪中之島美術館)は、フェッラーラ時代に描いた形而上的室内の代表作で、閉ざされ、建築的要素の欠落した室内に画家が所属していた軍事事務所で目にしていた学習用具や機械の部品、ビスケット、軍用の海図などが配置されています。

こうした脈絡のない状況や組み合わせにより、見るものに違和感を与える手法は、後のシュルレアリスムの画家たちも多用することとなります。

 

デ・キリコは1968年頃から、過去のモティーフを統合した「新形而上絵画」と呼ばれる新たな作品群を制作しました。

《「ダヴィデ」の手がある形而上的室内》(1968 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団)では、以前の室内画と同じモティーフに加え、イタリア広場の建物や塔、そして中央にミケランジェロの彫刻《ダヴィデ》の腕が出現しています。

過去の自作の引用や複製、著名な作品の差し込みは同時期のポップ・アートの流行とも呼応しています。

 

マヌカン(マネキン)のイメージは、アヴァンギャルドの「機械人間」の概念と並行して誕生します。

ただし、デ・キリコのマヌカンは、進歩に沿った近代世界という楽観的なキュビスム、未来派、構成主義のヴィジョンを突き抜けて、完全に独創的な図像として現れます。

 

形而上絵画の着想源そのものであるニーチェの思想の延長線上にあって、マヌカンは理性的な意識を奪われた人間の外観をもって、世界にあるその他の謎を帯びた存在を介して謎めいた様相を呈し、歴史の夜明けにおける原初の人間を名乗ります。

 

マヌカンは、「ミューズ」の、予言者の、そして世界に幻滅した観察者の役割をも担っており、存在の意味を探究する人間の神秘的な側面を具現化する登場人物です。

マヌカンの主題はデ・キリコにとって最も実り豊かなもののひとつとなり、20世紀美術を代表する絵画を生み出しました。

 

《予言者》(1914-15 ニューヨーク近代美術館)は、マヌカンを描いた最初期の傑作です。

アーケードのついた神殿、レンガ堀、彫刻の影など、それまでの形而上絵画で描いた様々なモティーフとともに、腕のないマヌカンが登場しています。

このマヌカンは、イーゼルを前に熟考する画家の姿をしており、世界の観察者、予言者としての画家、デ・キリコ自身と重ねられています。

 

デ・キリコは1925年以降、シュルレアリストとの交流の中で形而上絵画を再び描くようになります。

さらに1930年代初頭になると、20世紀の古典主義の先駆者と見なされていたルノワールの作品から学ぶようになりました。

《南の歌》(1930頃 ウフィッツィ美術館群ピッティ宮近代美術館)でも、以前の均質な塗り方とは異なる細かい筆致に、ルノワールの影響が感じられます。

 

1925年にパリに戻ると、デ・キリコは透明度の高い速描きという非常に近代的な油彩技法を実践し、時に画布の大部分を塗り残してむきだしにしたり、デッサンのみが描かれた状態のままにしたりしました。

この技法は、「秩序への回帰」の(1919-24年)時代の「古風な」旧式のテンペラ技法をわきに追いやっただけではなく、テンペラ技法と密接に結びついていた制作速度の遅さ、熟考、有限性などのあらゆる前提を突如として克服しました。

 

デ・キリコを自らの師かつ先駆者として仰いだアンドレ・ブルトンやシュルレアリスムのほとんど牧歌的なまでの和合がなされた1924年から1926年を経て、両者のあいだに生じた不和は、峻烈で明白なものでした。

しかし、ブルトンとの決別は、デ・キリコとパリの前衛芸術界との関係を損なうどころか、むしろ強化するものでありました。

この時期の主題は、部分的には形而上的モティーフの再生であるものの、全く新しい図像、異なる色彩、ピカソと肩を並べるほどの果敢な技法を達成したのです。

 

この時期に描かれるマヌカンは、胴部にそのマヌカンの役割を示す要素が浮かび上がっています。

《神秘的な考古学者たち(マヌカンの或いは昼と夜)》(1926 カルロ・ビロッティ美術館)では、白いマヌカンの胴に古代建築の要素が描かれ、考古学者であることが示唆されています。

また、デ・キリコはゴジック期の彫像から、座像の上半身を大きくし、脚部を小さくすることで、壮厳さや威厳が生じることを発見し、マヌカンへ応用しています。

 

《緑の雨戸のある家》(1925-26 個人蔵)のような「室内にある屋外風景」とでも呼ぶべき主題は、ギリシャ的な感覚から着想を得たものです。

デ・キリコによれば、ギリシャの空は「高くとも手が届く」ように感じるもので、それはギリシャ神話の神と人の近さに由来するといいます。

自然の要素や建物が配される部屋の天井は、ギリシャの空のように手が届くほど低くなっています。

 

1919年までのデ・キリコは、前衛芸術に身を投じながら「先人たち」の絵画技法の再発見に深い関心を寄せ、ヨーロッパの「秩序への回帰」に応答しつつ、伝統的な主題にも取り組みました。

この時期は、1925年のパリ帰還によって一時中断されています。

しかし1930年代の初頭以降になると、パリで描かれた作品でも、より洗練された技法が試みられるようになりました。

かくして訪れた伝統とゆるやかな和解は、第二次世界大戦中の数年間に、完全な決着をみることになります。

 

《鎧とスイカ》(1924 ウニクレディト・アート・コレクション)は、武具と果物というモティーフ、全体の色調や明暗など、バロック期に描かれた静物画を彷彿とさせます。

デ・キリコは過去の絵画の中に、時間を超越する可能性を見出しました。

それは前衛芸術の「現代性」あるいは「同時代性」と対極の「無時間性」であり、形而上絵画において画家が目指したものと重なっていました。

 

《風景の中で水浴する女たちと赤い布》(1945 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団)からは、デ・キリコは完全な自由のもとに創作する芸術家の自由を取り戻し、さらに当時の「メインストリーム」を形成していた前衛芸術の轍から抜け出そうとしていたことがわかります。

手前の果物の描写や奥の木々の描き方などを見ると、17世紀のバロック絵画、そしてウジェーヌ・ドラクロワ、ギュスターヴ・クールベといった19世紀フランス絵画を参考に描いたことが見てとれます。

 

デ・キリコの絵画の最終段階、年老いた天才の晩年において、神話が今ひとたびノスタルジックで捉えどころのない響きとともに芽吹き、論戦は鳴りをひそめます。

反モダニズムの論調と「ネオ・バロック」絵画が結びついたかのような戦いは、1960年代初頭にようやく魂の平穏を取り戻します。

バロック的な表現の思潮は、その後の数年でみるみるうちに減退していくことになりますが、中断されたわけではありません。

ともあれ、新たな、そしてどこまでも自由な、絵画と詩の実りの時期がここに幕を開けるのです。

 

1960年代後半からのデ・キリコは、古代の英雄を描いた時期の形而上絵画の主題やそれ以降の主題を、これまでとは全く異なる独創的な様式のうちに練り直しました。

神話は息を吹き返し、強烈な自伝的風景として絵画の中に広がる情景に再び生き生きとした輝きをもたらします。

この仕組みの中で、彼自身が生み出した様式から、制作の手がかりが戯れ遊ぶように取り戻されていきました。

 

《オデュッセウスの帰還》(1968 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団)は、長く苦難に満ちた旅路の果てに帰郷したギリシャ神話の英雄オデュッセウスがボートを漕ぐ姿が描かれます。

舞台は室内で、右の窓の外には画家の故郷ギリシャの風景が見え、左の壁には形而上絵画がかけられています。

室内の椅子や洋服ダンスなどもデ・キリコが過去に描いたモティーフです。

画家は、英雄の旅路を、自身の長く険しい人生と重ねています。

 

《燃えつきた太陽のある形而上的室内》(1971 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団)に描かれた太陽や月は、デ・キリコが友人である詩人アポリネールの著作『カリグラム』のための挿絵に描いたものです。

30年の時を経て、画家は神秘性と不安をかきたてる現代的なイメージとしてこのモティーフを再発見しました。

最晩年のデ・キリコの一流の創造性が、完全に独創的で詩情に満ちたヴィジョンを生んでいます。

 

このように、本展はデ・キリコのおよそ70年にわたる画業をいくつかのテーマに分け、初期から晩年までの絵画を余すところなく紹介しています。

デ・キリコ芸術の全体像に迫り、その唯一無二の表現力を堪能してみてはいかがですか。


 

 

 


 

 

 

会期:2024年4月27日(土)-8月29日(木)

会場:東京都美術館

   〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36

休室日:月曜日、5月7日(火)、7月9日(火)、7月9日(火)〜16日(火)

   ※ただし、4月29日(月・祝)、5月6日(月・休)、7月8日(月)、8月12日(月・休)は開室

開室時間:9:30〜17:30、金曜日は20:00まで

   (入室は閉室の30分前まで)

主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、朝日新聞社

後援:イタリア大使館、J-WAVE

特別協賛:大和証券グループ

協賛:ダイキン工業、大和ハウス工業、竹中工務店、NISSHA

協力:ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団、メタモルフォジ財団、イタリア文化会館、日本航空、日本貨物航空、ルフトハンザ カーゴ AG、ITAエアウェイズ