マティス展 | パラレル

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東京都美術館で開催中のマティス展へ行って来ました。


フランス北部で生まれたアンリ・マティスは、20歳を過ぎてから画家の道を志しました。

純粋な色彩による絵画様式であるフィーヴィスム(野獣派)を生み出し、モダン・アートの誕生に決定的な役割を果たした後に、84歳で亡くなるまでの生涯を感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩と光の探求に捧げました。

本展は、パリのポンピドゥ・センター/国立近代美術館の全面的な協力のもと実現した、日本では約20年ぶりとなる大規模な回顧展です。

 

本展の構成は以下の通りです。

 

第1章 フォーヴィスムに向かって 1895-1909

第2章 ラディカルな探求の時代 1914-18

第3章 並行する探求ー彫刻と絵画 1913-30

第4章 人物と室内 1918-29

第5章 広がりと実験 1930-37

第6章 ニースからヴァンスへ 1938-48

第7章 切り紙絵と最晩年の作品 1931-54

第8章 ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948-51

 

フォーヴィスム以前のマティスには、後に近代美術の中心人物となることをうかがわせるようなところはありません。

1891年、パリに上京し、体制派の画家ウィリアム・ブーグローの教えを受けます。

その画塾の雰囲気は形式ばっていて、マティスの絵も硬直してしまう恐れがありましたが、翌年、象徴主義の画家ギュスターヴ・モローのアトリエに出入りを許され、望み通り自由に描くことができるようになります。

 

展示室入ってすぐの場所に《自画像》(1900年)が展示されています。

本作は、支えであった師ギュスタヴ・モローが世を去ったのちの、迷いの中で描かれた初めての自画像です。

彼はここで、自己を掘り下げ主張するための伝統的な手法である自画像に挑戦しています。

自分自身の顔立ちを粗描し、画家としてのアイデンティティを明確に打ち出しています。

勢いのある筆致が絵の表面にリズムを刻み、全体に暗い調子ですが、所々に配された鮮烈な色により、活気が感じられます。

 

注目すべき作品は、《豪奢、静寂、逸楽》(1904年秋-冬)です。

1904年、マティスは新印象派の中心人物ポール・シニャックの招きで南仏サン=トロペに赴きます。

パリに戻ってから、同派のユートピア的美学に挑戦しつつ描いたのが本作です。

複数の人物が点在する理想的な風景は、新印象派の規則(固有色の放棄、純色、筆触分割、視覚混合)に従って描かれてはいるものの厳密ではありません。

転機となった作品ではありますが、当時マティスを悩ませていた色彩と線描の衝突の解決には繋がりませんでした。

 

その3年後に描かれたのが、《豪奢Ⅰ》(1907年夏)です。

本作の田園風景は単純化され、震える素早い運筆で塗られた、ほとんど虹色の色面から組み立てられています。

浜辺に佇む巨人のごときヴィーナスと、花束を捧げ持つ侍女との関係は曖昧です。

本作はサロン・ドートンヌに出品され、抽象や未完成作品とみなされたり、装飾的であるとして称賛されたりと議題を呼びました。

 

安定した制作を続けていたマティスですが、第一次世界大戦の勃発を機に事態は一変します。

親族の住むフランス北部ボーアン=アン=ヴェルマンドワは敵の手に落ち、2人の息子は相次いで徴兵されます。

マティス本人も兵役を志願しましたが、採用はされませんでした。

ゆえに創作が、不安と、待つことしかできない身のよるべなさとを抑えるための規律となります。

この時期のマティスは一連のラディカルな作品を生み出していきます。

 

《コリウールのフランス窓》(1914年9-10月)は、マティスにとって重要なモティーフである「窓」が用いられた作品です。

窓がアトリエを外界に向けて解放し、結果として2つの領域は混ざり合って「統一する全体」を成しています。

中央の金魚鉢は1912年から13年にかけてマティスが旅したモロッコで見たもので、周囲の色彩が入り込んでいますが、独自の小宇宙を形成するという、曖昧な空間性を体現しています。

 

マティスは彫刻も手がけていました。

彫刻に関する発言は皆無で、数少ない談話のひとつで「補足の習作として、自分の考えを整理するため」だと述べています。

そのため、彫刻はしばしば、副次的だとか周縁的な重要性しか持たないものとみなされてきました。

しかし、彫刻はマティスの生涯に節目を刻んんでおり、彼の仕事の展開において本質的な役割を演じました。

 

《背中Ⅰ》(1909年)、《背中Ⅱ》(1913年)、《背中Ⅲ》(1916-17年)、《背中Ⅳ》(1930年)は、時間とともに単純化・抽象化していくような印象を与える作品です。

長い時間をかけてマティスが絵画において歩んだ(最終的に大型壁画作品へと至る)道のりと連動している点で重要な連作です。

ひとつのシリーズとして構想されたわけではなく、同一の母型がくぐり抜ける複数のステート(状態)として考えられました。

ここでの主眼は静と動のバランスを取りつつ、身体の垂直性を表現することです。

マティスは、人物が背景と一体化しつつ吸収されないようなぎりぎりの境界線を探っています。

 

1918年、マティスはニースに拠点を移し、作品に大きな変化が訪れます。

「ニース時代」と呼ばれるこの時期は、驚くべき多作ぶりが特徴です。

マティスは、空間配置の点でも現実との結びつきの点でも、以前に比べて伝統的な絵画観に立ち戻ったため、「ニース時代」はフランス的絵画伝統への回帰として称賛されることもあれば、単なる手抜きの休憩期とでもいったものとして批評されることもあります。

しかし、息抜きというよりはむしろ閉じこもってひたすら作業に打ち込んだという方がふさわしく、それまでに自分がさんざん苦労してようやく獲得していたもの一切を問い直したのです。

それが最も顕著に現れているのが、室内の人物という主題を探求した作品群です。

 

《赤いキュロットのオダリスク》は、東方のエキゾチックな衣装に身を包んだ女性像、「オダリスク」絵画の第1作です。

以後マティスはこの画題を繰り返し描くことになります。

ここでも彼の関心は、背景に人物をどのように配するかにあります。

ニースのシャルル=フェリックス広場1番地に構えたアトリエはミニチュアの劇場のようにしつらえられ、1920年代を通じてマティスのお気に入りモデルだったアンリエット・ダリカレールが様々な姿で登場します。

《赤いキュロットのオダリスク》(1921年秋)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

 

1930年代から晩年に至るまで、マティスの制作にとって複数の女性アシスタントが重要な役割を演じるようになります。

1932年にリディア・デレクトルスカヤが雇われます。

マティスは時おり彼女をモデルに使ったが、1935年以降のデレクトルスカヤはアトリエの切り盛りを一手に担うようになりました。

この時期、マティスの創造プロセスは大きな変化をくぐり抜けます。

再びデッサンの創作に没頭し、そうすることで形態を力動的な徴しとして想像しなおしたのです。

挿絵本を手がけるようになったのも同じ時期でした。

 

《夢》は、デレクトルスカヤを描いた作品です。

モデルを観察することはマティスの創造プロセスの核を成していました。

モデルがどのようなポーズを取るかを決めるのは画家ではなく、自分はただ奴隷のように従うだけなのだ、と彼は言います。

デレクトルスカヤは、本作でくつろいだ休息の態勢にありますが、これはマティスの目に、真に自然で、コントロールされていないがゆえに最もモデルに適性な姿勢と映りました。

人物像は画面全体に広がり出しており、情感面でも造形面でも開放感があります。


《夢》(1935年5月)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

 

《座るバラ色の裸婦》のモデルもデレクトルスカヤです。

少なくとも13の階段(いずれも写真撮影された)を経たこの作品の制作を、マティスは一回中断したのち再開して1936年に完成させました。

度重なる消去や単純化といった操作の痕跡をあらわにしながら、最終的には徹底した幾何学形態となりました。

青の背景の前で優美なポーズを取っていたモデルは、亡霊めいた図式的な像に変貌しています。

《座るバラ色の裸婦》(1935年4月-1936年)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

 

1939年、第二次世界大戦が勃発します。

この時マティスは70歳近くであり、いっときは外国に亡命しようかと迷ったものの、最終的にフランスを離れることを断念します。

1943年、ニースに空爆の危機が迫ると、マティスは同市を去って近郊の丘の町ヴァンスに移りました。

 

《赤の大きな室内》はこの時期に描かれた作品です。

本作には、光としての色彩をめぐるマティスの仕事が濃縮されています。

事物は2つで1組を成し、アラベスク細工が施された小型円卓と矩形の食卓、床に敷かれた2枚の動物の皮が互いに結びつきます。

壁の筆描きによるドローイングが、マティスらしい赤色に支配された空間に、窓のように異なる空間を切り取っています。

《赤の大きな室内》(1948年春)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

 

《黄色と青の室内》もヴァンス室内画です。

単純化された背景に、大きな陶製の壺や果物、大理石の小型円卓に載せた花束、骨董店で見つけてきたロカイユ様式の肘掛け椅子なそ、マティス絵画ではおなじみの事物が配されています。

事物は真正面から捉えられて奥行きを示唆せず、本来は隔ったった位置にあるにも関わらず、繋がっているように見えます。

ここでマティスは、色彩の中の新たな空間を創造しているのです。


《黄色と青の室内》(1946年)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

 

1941年、マティスは手術でからくも一命をとりとめ、本人いわく「奇跡的生還」を遂げます。

彼が切り紙絵技法を思いついたのは、こうして自分が生きながらえた事実に励まされ、新たな活力に満たされていた時でした。

それ以降、マティスはあらゆるスケール、あらゆるモティーフに挑戦していきました。

 

《ジャズ》(1957年)は20点の図版から成るポートフォリオです。

画文集『ジャズ』は「色彩についての本」を作りたいという出版社、批評家テリヤードの希望に応じて制作され、切り紙絵の手法を初めて一般に公開した一冊です。

当初の目的は複製でも質の変わらない技法を開発することでした。

マティスは切り紙を次のように評します。

「それぞれの赤は赤のまま、それぞれの青は青のままだーちょうどジャスのようにージャズではそれぞれの演奏者が担当するパートに自分の気分、自分の感受性を付け加える」。

切り紙絵の原画を型(ステンシル)を使って転写した図版20点に作者の手書きによる文章ページを組み合わせた版(270部)と図版のみの版(100部)の2種類あり、本展に出品されるのは後者です。

 

《オレンジのあるヌード》(1953年)は、マティスがそれぞれの作品を連動させながら制作していたことが分かる作品です。

本作は初め、筆と墨によるデッサンとして着想されましたが、そこにマティスは壁面の試作として制作された大型の切り紙《花々と果実》(1952-53年、ニース・マティス美術館)から要素を借りてきて付け加えました。

オレンジ3つが人物=徴の周りに配されて回転運動を示唆し、画面にダイナミズムを与えています。

 

本展ではマティスが手がけた絵画を通覧し、その造形の実験の軌跡に触れることが出来ます。

マティスが絶えず重ねてきた試行錯誤を追体験してみませんか。

 

 

 

 

 


 

会期:2023年4月27日(木)〜8月20日(日)

休室日:月曜日、7月18日(火)

   ※ただし、5月1日(月)、7月17日(月・祝)、8月14日(月)は開室

開室時間:9:30〜17:30

   ※入室は閉室の30分前まで

会場:東京都美術館 企画展示室

主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、ポンピドゥー・センター、朝日新聞社、NHK、NHKプロモーション

後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本

特別協賛:大和証券グループ

協賛:ダイキン工業、大和ハウス工業、NISSHA

協力:日本航空

お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)