我が校にも学生運動の波が
70年安保が近づいてくると小さな我が校にも学生運動の波が押し寄せてきました。校内には立看板が増え「我々はー!」で始まるアジ演説をするものが出てきました。革マルが一番多く、中核もいました。内ゲバはなく民青もそれほどいなかったので他校に比べれば大人しいものでした。我が校は内部進学生も多く愛国的な思想の学生が多かったので活動家も大きな顔ができませんでした。学生運動家が一度学長室選挙を試みましたが、内部進学生中心の右翼的な学生が一致団結して全学連を排除したこともありました。学生運動が活発になってくると情報収集のため公安の警察官がよく顔を出しに来ます。学内に公安が入ってくると私服でも雰囲気が全く違うのですぐ見分けがつきます。学内では話しかけてきませんが、これと思う学生には学校の近くで話しかけてきたり喫茶店に誘ったりしてきます。店の中では名刺も出してきますし活動家の情報も取ろうとしてきます。場合によっては彼らのほうが学内情勢に詳しいのには驚きました。日本中の大学が騒然としてきたのは間違いなかったです。

1968年 神田カルチエ・ラタン
1968年は大学紛争、学生運動が激しくなった年でした。6月21日に神田駿河台の学生街を解放区にしようと社学同が起こした闘争は一定の支持を集めていたように思います。というのも機動隊が力でバリケードを撤去しようとし挙げ句に催涙弾を使ったのでそれが反発を受けたからでしょう。学生たちは群衆に紛れて機動隊を悩ませましたが数と体力の差はどうしようもなくバリケードも撤去されました。機動隊と学生では体格差は明らかで神田カルチエ・ラタンはあっけなく終了しました。闘争の翌日御茶ノ水から明大通りを通った時はまだ催涙ガスの残りで目が痛かった記憶があります。このあと学生運動は全国に広がり、我が大学にまで活動家が大勢誕生しました。




