宝塚雪組 fffフォルティッシッシモ- 歓喜に歌え-感想随想 | 百花繚乱

百花繚乱

駆け出し東宝組。宙から花のように降る雪多めに鑑賞。

 

 

fffは、ベートーベンの、音楽家、啓蒙思想家、悩める1個人、の側面をそれぞれ明快に入れ込んでいて、私小説的ではない、もっと大きな枠組みの中で、人類の英雄としての存在を描こうと試みている作品だと思いました。

 

ベートーベンは今日にいたるまで、ただの一音楽家でなく、偉人として扱われている。

それは、

 

音楽の近代化を推進したこと

個人の自由、精神の自由という近代思想を、音楽を通して表現したところ

人間と幸福について答えを出してしまった人

 

という、音楽家、啓蒙思想家、悩める人間、という多面的な側面で、行動し続け、後世に一つの解を見せた点だと思う。

 

人物というより、苦悩や運命という概念をテーマにした大きな作品の中で、だいもん真彩ちゃんの歌唱力が、重厚で神聖な効果を上げていました。

全員織りなす壮大なコーラスは、まるで天国に達したような声のスペクタクル。

望海風斗の退団公演にふさわしい濃密な、雄渾無比の作品でした。

 

■音楽の革新性

天界、王貴族、平民たちのキャラクターが明快に描き分けられていて、音楽の聴き手が教会、王侯貴族、平民へと変化していくという背景が非常にわかりやすかった。

 

貴族の楽しむ音楽は、優雅で平和で調和のとれた音楽、ロッシーニ。

あすくんと翼、のこういういやったらしい役、素晴らしい。

庶民の音楽を 「うるさい」「下品」「騒々しい」 とはきっり言わせる。

 

対して、市民の音楽は、騒々しく、活気と驚きに満ちている。

革命、戦争が各地で起こり、市民の集う野外や大会場で演奏できるラッパと太鼓、大音量の音楽が必要となってくる。

楽曲も、動乱の時期に負けないダイナミックで、劇的な音楽へと変わる。

 

なるほど、ベートーベンの曲のフックの強さはこういう背景から生まれたんだ、とよく理解できる。

現代でいうなら、ヒットcmソングに匹敵するわかりやすさ。

今でも斬新なんだから、当時ではどれだけキャッチ―だったことか。

 

野外コンサートの場面で、どでかいラッパの装置、黄色の市民 VS白色天界+貴族が 二列になってのしりあうという、視覚的にはっきり表した演出が素晴らしい。

(惜しむべくは、ここの歌詞がちと聞き取りにくい)

 

印象的だったシーンは、フランス革命がおこったとき、みちるちゃん演じるモーツァルト 「1791年、僕は死んだ」 と高らかに叫ぶところ。

興奮し、誇らしげな表情で 「音楽の時代が変わる」 と宣言することは、個人の時代、近代の肯定だ。

時代の過渡期、弱体化しつつある宮廷や貴族に雇われるため放浪を続けた天才モーツァルトが、自分の死をもって新たな時代を宣言する姿が、未来への希望に満ちた音楽と重なって、人間賛歌と時代のうねりを感じて胸が熱くなってしまう。

 

第九の合唱自体も、市民意識の表れだとそう。

高い技術を有する専門職人でなく、誰もが参加できる合唱。

実験的で革新的な試みをしながら、一定の音楽的評価も得ているのも凄い。

 

 

■啓蒙主義者として

社会は万人のものであるという現代では当然とされている思想が、月満たぬ子として葬られるか生き延びるかの過渡期に、ベートーベンは啓蒙思想家のような役割を果たしたと描かれている。

 

ナポレオン=武力、ゲーテ=知性 (自然主義・科学・感情)、ベートーベン=芸術

同時代の三人を対比させたことで、時代背景の説得力が増し増し。

この三人の共通点を、「人間の力を信じる」 というシンプルな一言でまとめて近代的人間の定義を端的に表したのも鮮やか。

 

オープニングとエンディンクで、ドラマティックな音楽とともに三人が登場する場面が大好き。

「人はよき未来を手にすることができる」 というテーマをこの三人が繰り返し口にするメッセージ性の強さよ。

宝塚歌劇団の描く理想とも重なる。

 

望海風斗、彩風咲奈、彩凪翔 の三人のトライアングルが、本当に見ごたえがある。

三者三様の個性と、一歩も引かぬ存在感のぶつかり合いがうむ舞台の華やかさと安定感が、だいもん時代の雪組の集大成を見るようで感無量でした。

あーさが舞台稽古でこれを見て爆泣きしたそうだが、さすがの感受性。わかる。わかるよ・・。

 

 

劇中劇で、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」が、ベートーベンの心情風景として、ジュリエッタやロールヘンへの失恋と重ね合わされ、死へといざなうシーンとして効果的に使われているのが心憎い。

 

若者の失恋と自殺、という陳腐すぎる作品が、ナポレオンが 「七回読んだ」 というほど評価され、熱狂的ブームを引き起こした理由は、現代ではわかりにくい。

教会と貴族の時代は、良識ある行動や道徳的正しさなどの社会的な外的な生活が重視されてきた。

ゲーテは、ウェルテルで、個人が死を選択するという自由意思と、恋愛や感情という内的生活を赤裸々に書き出した点で革新的だったらしい。

 

ベートーベンが音楽で、秩序と調和の音楽から、劇的な人の内的感情の表出としての音楽へと領域を広げたのよりはるか前に、ゲーテは文学の領域で内的世界を描いて、人の精神の自由の領域を広げた偉大な先達だったということだ。

ベートーベンがファンになるのももっともなこと。

 

まだおぼろげな時代の潮流や価値観を、芸術が誰よりも先んじて形にして、世に提示して見せる、そんな良き時代もあったのだな、とふっと思ってしまった。、今、芸能と芸術はその役割を果たせるんだろうか。

(宝塚も、実は、体制の中で生存するマイノリティの歴史の一角を担っていると私はひそかに思っているのだれど)

 

 

■神なき時代の個人

貧困、虐待、失恋、理想の喪失、作曲家でありながら聾になるという逆境の中で、なぜあれほど美しい楽曲を描き続けることができたのか、ベートーベンが尊敬される大きな謎。


まあやちゃんが 「お前の名前がわかった」 とベートーベンに告げられて、「(私の) 名前・・」 と、自分に名前があることを初めて知ったような顔をするところが印象的。

それまでは、幸も不幸もすべて「神」という名前だった。

人生が神の決定するものでなくなったとき、誰のせいにもできない不幸に 「運命」 という名前がつけられる。

 

神から個人へ運命の担い手が変わり、人生を誰のせいにもできなくなった時代に、個人がどう生きていくか。

今日に至るまでの命題に、彼が答えを出したように見える。

 

この作品で見えたベートーベンの答えは、諦念に近い。

幻想の中で理想を共有したナポレオンが倒れ、幻想の世界でも絶望しきった後に、「運命」 を認め、愛したベートーベンは、諦めの果ての悟りに見える。


自分は無力だと受け入れざるをえなくなったとき、回復が始まる。

己の運命をただひたすらに生きるということ。魂の課題を生きること。

それがベートーベンの出した答え。

 

そこまでは理解できる。

そこから、一気に歓喜にまで至ってしまうところが、とても唐突に感じる。

 

あの歓喜は死に際の変性意識状態、あるいはヒッピーの解脱体験のような、神秘的経験を表していると思うことにした。

 

悟ると、万物との一体感や、生きる悦びというところに行きつくらしい。

話はぶっ飛ぶが、弘法大師曰く、即身成仏、=宙と自分が一体化した時の感覚は 「現世に歓喜地を証得する」 

ベートーベンは、そこにいってしまったのかもしれない。

太陽か大日如来の日輪かと見まごう巨大な光の円環のセット、白い天使たちと、コミカルすぎるベートーベンと運命の恋人(まあやちゃんのこと)の動き。

あの「歓喜」は、トリップしちゃった人の宗教的な法悦の境地ではないかと勝手に思った。

 

それを物語の中で描くのはどだい無理なので,運命を抱きしめたあと、問答無用で一気に華厳の滝みたいな大合唱と光の暴力になだれ込み、怒涛の勢いで盛り上げて終了。

人間の理を超えた境地の表現として見ればありな気がする。

 

シンプルに、第九を作ったことで人類のための音楽を書けたと確信した、仕事を通してやるべきことをなしえた喜び&退団オマージュでも全然問題なし。 

 

■天才の頭の中

この作品は、あまり人との心情の交流が見えない。

ゲルハルトやロールヘンも登場はするけれど、ベートーベンはどこか上の空。

彼と真の意味で会話をしているのは、謎の女と、幻想の中のナポレオンぐらい。

実生活では最も彼を振り回したであろう甥は一切登場せず、女たちとの恋愛シーンもほとんど重きを置かれていない。

ほとんどは、彼の脳内で繰り広げられている出来事。

 

あえて脳内に焦点を当てたのは、他人が共感できる領域でない、内的な精神的戦いを強調したかったからだろうか。

失恋、貧困、家族、政治的理想の破壊というわかりやすい私小説的な要素を超えて、さらに奥の領域。

そこで戦いぬいたことが、偉人と言われる人の偉人たるゆえんかもしれない。

外的な出来事も結局、彼のなしとげた仕事を阻むことはできなかったのだから。

 

 

■人間賛歌  ナポレオンと農夫、

最後、ロールヘンが語り掛ける、ナポレオンの逸話が大好き。

 

ナポレオンが馬から降り、いきなり農夫から鍬を奪う武人らしい豪胆さ。

はこれから作物が育ちいく、始まりの場所である。

ひとすじのまっすぐな畝は、未来への希望。

農地を戦いで焼土としたナポレオンが、自ら土を耕し、金貨を渡したのは、土に生きる生活者へのつぐないだったのだろうか。

そして再び、真の人間として生きつづけようという、ナポレオンの生きる意志と希望を表しているのではないか。

 

挿話が、ベートーベンの養育者としてのロールヘン夫妻から語られることで、一層みずみずしい印象を残す。

「いつも全身全霊をこめて働く、わが英雄へ」 と語り掛けるロールヘンの誇らしげな言葉も、人間の未来への信頼を思わせる。朝月希和ちゃんの、慈悲に満ちた品格のある佇まいが素晴らしかった。

この言葉は、上田先生が、トップスター望海風斗に贈る言葉でもある。精魂こめて、渾身、という言葉がぴったりな望海風斗の姿は、ベートーベンの意志の力を演ずるのに、これ以上なくふさわしかった。

 

 

■この作品は宝塚らしくないのか

望海風斗の作品は、基本的にロマンスが主要テーマではない。

ハッピーエンドでもない。

苦悩や格好悪い男を、現実に近い形で演じる。

うっとりするような美男美女が、豪華絢爛のセットで、理想に燃え愛を完結させる、観客が宝塚作品に求める夢夢しさは乏しい。

 

観客の満足度を高めていたのは、言うまでもなく望海風斗と真彩希帆の圧倒的な歌唱力。

そこに上田先生の作劇が重なって、fffは「本格的」な舞台となった。

他劇団で、男性女性キャストでも上演しても成立しうる内容の芝居だったと思う。

 

それでも、私はやっぱり宝塚で見たい。

なぜなら、同質性の美があるから。

 

女性合唱の美は、同質性の美だと思う。

声質や音域が似ていることから、和声感が強く、統一された響きを持つ。

極端に体格の異ならない身体の均一性が、群舞の圧倒的な美しさになる。

宝塚化粧も、集団の均質美に一役買っている。

一定以上の水準で、同じ型を持つように鍛えられたプロ集団。

古代ギリシャ彫刻がほぼ同じ顔の系統であるように、同質のもので繰り返される様式美の一貫性を、私は美しいと感じる。

 

「なぜ男女で演じないのか」 「男の声を無理に女が出す必要があるのか」 と良く聞かれるが、

必要なんてない、そういうジャンルなのだ。

 

男女の劇団があることが、女の劇団を否定する理由にはならない。

共学の学校があるから、男子校や女子校は必要ないと言えないのと同じで、それぞれ違う。

なんらかの理由でいろいろな集団ができていて、めいめいその世界を営んでいる、それだけのこと。

 

「本人たちが漫才と言えば漫才」 といった博多大吉さんじゃないが、宝塚でやれば宝塚になる。

宝塚は、漫画雑誌のようなもので、様々なジャンルの、様々な毛色の作品があるのが面白い。

タカラジェンヌが演じ、宝塚の演出家が演出し、宝塚の舞台さんたちがつくり上げるなら、それが宝塚だと思う。

差異はあれど、時代が変われど、生徒にもファンにも通底し続けている音があるのだから。

 

自分はキラキラのスターではないんだ、と悟った望海風斗が、いかに宝塚的であるかを模索し続けた結晶の舞台だと思いました。

渾身の演技が、自分の道を極め続けたベートーベンと重なって見えました。

自分の信じる道で、自分の個性で舞台の質を高め続けること、舞台への献身の姿勢が宝塚イズムそのものでした。

 

 

だいもんは、上田先生に希望を聞かれたときに「床に這いつくばる役は沢山やった」と言上したそうだけれど、確かに今回這いつくばりはしないが、結局苦しい役であることに変わりはない(苦笑)

ただ、不幸、振られる、死ぬ役を続けまくってきた望海風斗演じるベートーベンが、「人生は幸せだった」 と叫ぶなら、もうそれでいい。

この状況下で、宝塚を引っ張ってきてくれたトップさんが笑顔でこう言っているのなら、そういうことなのだ。

全部全部、いろんなもの、彼女たちの思いも、私たちの思いも、何もかもを一緒に無理やり連れて行こうという、そういうピリオド、いや、終止記号なら、その曲はそういう曲なのだ。

 

私たちの英雄を心から誇りに思い、感謝の念に堪えません、