音圧がすごい。風圧がすごい。
怒涛の展開で進んでいくことと、メロディーが美しすぎ&歌がうますぎて逆に歌詞が頭に残らないという、今だかつてない驚きの現象が起きるが、革命後の混乱の熱量をあますことなくとらえていたと思う。
ロベスピエールが革命の立役者であることを示すシーンは、だいもんの歌たった一回のみ。
そして、それで十分。
暗闇からせり上がり、朗々たる美声をとどろかすロベスピエールの前で、客席はあのとき確かに「夜明け」を感じ、民衆になって説得されてた。
歌こと演説が終わったとき、拍手してスタオベしそうになるほどに、だいもんの真骨頂の、雄大な広がりをもったドラマティックな歌唱が見事だった。
だいもんの歌を聴くと、自分の肌が共鳴りしているように感じる。
歌に体中洗われて、体の芯まで染み渡る気がする。
前に何かのインタビューで、
「井上芳雄さんとご一緒したときに、全身から声を発するのを感じて驚いた。
それを聞いてから自分もできるようになった。
一度肌で感じたのが大きいかもしれない」
と語っていたときには、いったい何のエスパーの話だと思ったが、実際、聞く側も、全身が、皮膚の全てが、音を吸い取っているように思う。
人が声を発すると、音は波動なので、声帯から口腔内に伝わるだけでなく、筋肉にも、骨にも、内臓にもそれぞれ伝わっていく。
髪も肌も骨も 「歌う」 のだ。
筋肉や内臓などはそれぞれ構成成分や質量が違うため、通常各臓器を音として伝わっていくときの速度は異なる。
しかし、内田樹さんの著作に書いてあったと思うが、よく鍛えた能楽師などは体の各部分の振動を調え、合わせることができるらしい。
振動数があった音は、共鳴し、増幅する。
髪や肌や骨もがそれぞれ響きあい、体全部がひとつの楽器となって鳴るという。
井上芳雄さんの、そしてだいもんの歌は、この現象ではないかと勝手に思っている。
だいもんの歌はうまいが、CD音源で聞くと、劇場で聞いたときの深みが再現されなくていつももどかしい。
それはきっと、劇場の空気と、だいもんの全身と、私たちの全身がやりとりしている音の共鳴がなくなるせいなのだと思う。
だいもんの声は、劇場の椅子に座る人間を、特権者として優遇してくれる。
対して真彩ちゃんの歌は、鼓膜にダイレクトに飛んできて、そこから広がっていく感じ。
組子の民衆のコーラスは、土煙みたいに足元から立ち上ってくる感じ。
歌、歌、歌。
歌の波が客席をなぎ倒していく、圧巻の幕開けでした。