アデュー美しき極道・明日海りお | 百花繚乱

百花繚乱

駆け出し東宝組。宙から花のように降る雪多めに鑑賞。

■天国の番人

退団公演を観劇し、千秋楽のライビュで明日海さんを見た感想は、

 

「なんて美しいんだろう」

 

初めて見たときから、寸分変わらぬ感想でした。

いやむしろ、経てきた年月の重さの分、感嘆がさらに加わって、ただただ魅入りました。

 

東宝の二階のロビーで、客席へと向かうエレベーターに乗る前に、VISAカードの看板広告が目に入る。

それを見た後に、エレベーターに乗り、シャンテ前の歩道を歩く人たちがゆっくり小さくなるのを見降ろす時が、「観劇に来たなあ」と日常から切り替わる儀式のようなものだった。

 

梅田で、宝塚大劇場で、VISAカードの看板を目にするたびに、勝手に誇らしさで胸がいっぱいになった。

明日海りおの清潔感のある瑞々しい美しさと凛とした風容を見れば、宝塚=美という世界観が一目瞭然で伝わってくる

それは金色の曼荼羅とかイスラム美術などの視覚による伝道レベルの説得力で、VISAカードのみならず、宝塚歌劇自体のイメージキャラクターにふさわしい麗人ぶりだった。

 

しかも恐ろしいことに、一旦劇場に入ると、この曼荼羅は動いて歌って気障ってウインクまで炸裂させてくるのだ。

狭き門をこわごわ覗き込んだ初心者の子羊達が、軒並み宝塚教に転びまくったのも無理はない。

 

 

誰が見ても美しく、常に高い水準の芝居世界を作りあげ、歌えば大空高くこだまして広い世界を駆けめぐる。

タカラジェンヌらしく、謙虚にひたむきに、胸を張り誇りもて足踏みしめてたゆまず幸せに続く茨の道をパレードする。

宝塚歌劇という天国の番人だった。

 

 

■明日海りおの男役像と時代性・・・成熟を拒む男

トップになってからの明日海さんの男役で印象深いのはやはりトート、ギイ、エドガー

春の雪の清顕もそうだが、この世ならぬもの、この世から疎外された(と感じている)存在を演じた時の屈折した色気が圧巻だった。

 

いわゆる、「こじらせている」男性像は、測らずも平成という時代の男性像と呼応しているように思う。

童貞ものや離婚した男など、「こうでなければ一人前の男ではない」 という男の自意識と現実の間で葛藤するドラマが出てきたり、おっさんずラブのように、恋愛が人生を左右しすぎるほど左右し、愛情を相手にストレートに伝える男性が描かれるようになった。

男性は成熟していて理性的で合理的であるという概念を覆すような、未成熟の非合理的で感情的な姿を、あなおかしと描くようになったのは面白い。

 

宝塚の男役像も、基本は成熟していて理性的だ。

理性が破綻するときは、愛という絶対的なすみれの代紋がある。  

愛(私情)に流される男という、現実では”男らしくない”と非難される男の弱さとされる姿を、美しさと色気で昇華させ、正当化させてきたのが宝塚とも言える。

 

今はやりの女装モノも、極論すれば、男が感情をあらわにしたり美にこだわるのは、女という仮面をかぶらなければできないからなのかと思う。

男の姿を借りなければ、女が社会進出する話を描けなかったベルバラの逆のように。

 

明日海りおの演じる男役は、成熟を拒否せざるを得ないときに、色気を増す。

もともとの青年役、ビルやアーネストの明るい爽やかさよりも、自国が侵略される運命に蹂躙されるギイや、妹を救うための自己犠牲としてバンパネラになったエドガーなど、そこにとどまらざるを得ない宿命に憤る姿に、その宿命から抜け出すのではなく、自ら業の中にとどまることで運命と心中する姿に、愚かしく哀しい美しさを見る。

 

滅びの美学は宝塚のクラシカルなテーマではあるけれど、明日海さんが演じた少年から青年の役は、もう少し生々しい自意識の戦いや情念が強く見える。

滅びの美学は、成熟な男がほろびて美学を完成するが、明日海りおの演じた人物は、未成熟で未完成なまま滅びていく。

完全に成熟した色悪ヴァルモンよりも、成熟をあざ笑うような色男・・カサノバやstudio45のザックなどのチャラ男がよく似合っていたのも興味深い。

男性側から見ると、現実の男性では拒否できない成熟への痛みや抵抗を、美として肯定して演じるのもまた、男役の効用かもしれない。

 

 

望海風斗が演じる男役も、ある意味で"男らしさ"が壊れた人物だと思う。

それをどう美しいと感じさせるかはまったく違うやり方をとっていると思うが、同時期の同期のトップが、欠けた男の姿を多く演じていることにはなんらかの時代性を感じる。

(体格から演目が制限されるのはもちろんあるでしょうが)。

 

明日海さん本人はコンプレックスだったと語っていた中性的な容姿は、内側に滾る男役への情熱と合わさったとき、くすぶる自意識の悲しみのような新たな側面からの男の美を見せてくれたと思う。

 

 

 

■さらば、美しき極道

月組時代、新公時代から応援なさってる方達は、明日海さんのことを「みりおちゃん」と呼ぶ。

下級生時代の映像や歌劇等を見ると、本当に愛らしくてあどけなくて、月組の弟としてかわいがられていた様子が伺える。

私が目にしたのは、「花組・明日海りお」になってからの明日海さんで、ストイックな厳しさを漂わせていて、とてもじゃないが 「みりおちゃん」なんて呼べなかった。

 

だいもんがトップになってから、内輪の番組ではゆるキャラとオタクキャラを盛大に解禁しているのに対して、明日海さんはいつも、「明日海りお」の名に負ったものを注意深く守っているように見えた。 (※望海さんが背負っていないというわけではもちろんないです。)

「カクテルの黒燕尾で、保留していた(就任の時にいただいた)おめでとうの言葉を、やっと受け取った」 という言葉を聴いて、明日海さんが自分に課してきた厳しさに改めておののいた。

さよならショーのペンライトまでおこげだったのは笑ってしまったが、おこげちゃんはトップとしてのイメージを破綻させることなく明日海さんのキュートな一面をひきだした名脇役だったな、と思う。

 

 

あんなに恵まれた人が、トップになるため、なってからたどってきた道を考えると、なんつー修羅なやくざな道じゃろう、と思う。同時に、なんと栄えある道だっただろうと思う。決して隙をみせず、客に最高の美しさを見せ続けた明日海りおは、美しき極道でした。

 

「(退団した後は道で会ったら) 気軽に声をかけて」のくだりには、無茶言うなよ!!、とライビュで参戦してた全国10万人が総つっこみを入れたと思うが、最後まで謙虚さを忘れず、あくまでただの一生徒であろうとする姿が本当に宝塚の生徒さんで、明日海さんの宝塚に対する思いを痛感して、泣けた。

背負ったすみれの代紋の重さが、ずっと明日海りおを守ってくれますように。

 

(たぶん表に出してないだけで、オタク度は絶対だいもんと互角だよね)

 

 

明日海さんの年末の挨拶が大好きでした。

公演のない、一年でもっとも心が寒い時期も、明日海さんの「よいお年をー」というゆったりした口調に送られると、「みかんでも食べてクロニクル見ようかね」とほのぼのした気分になった。

今年も、まさかの恒例の挨拶が聞けてうれしかった。

  

  

今年も、来年も、そしてその先も、

 

どうぞ、明日海さんも、よいお年を。

 

 

 

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