その薔薇の名は明日海りお 宝塚花組ポーの一族観劇感想 | 百花繚乱

百花繚乱

駆け出し東宝組。宙から花のように降る雪多めに鑑賞。

※内容に触れている箇所があります

 

普段舌鋒の鋭い宝塚ファン達のレポが、当初ほぼほぼ 「美しい」  「凄い」で埋め尽くされているだけで、詳細が全然わからなくて可笑しかった。

プログラムを開いてみれば、小池先生「封印は解かれた」とぶちあげ、萩尾先生まで地球に、時間に、宝塚に」感謝を述べてらっしゃる。

 

おまけに見たこともない薄い透ける紙が中綴じで入っており、(これ高級菓子の中とかに入ってる紙じゃ) (マーブルの模様が印刷されてるよ??) the poe clanのポートレイトが印刷されております。

これはただことではない。

餌どもは、眠らない土地東京でのポーの一族の逗留を楽しみにしておりました。

 

いや、美しかった。

もう本当にその一言で、説明不要なぐらいの鬼気迫る美

あれは物の怪クラスタ。霊長類では絶対に、ない。

 

小池先生が漫画の文庫本解説を書くほどの熱心なファンだったからこそ、原作への愛と敬意が払われていて、とにかくエピソードがよく網羅されていたと思う。

漫画よりは耽美的な要素が薄まって、少年達の魂の試練の物語としての色が強いように感じた。

 

 

■時の神秘が消滅

原作のポーの一族は、短編作品の連作で、話が時系列順に進まない。

順序としては、エドガーがバンパネラになる → 妹・メリーベルがバンパネラになる → エドガーの友人のアランがバンパネラになる、なのだが、作品では

 

エドガーがアランを一族に加える → ポーの村でバンパネラになっているエドガーとメリーベルに会った一人の人間の男の回想 → その子孫が彼の残した日記を子供に語り聞かせる → エドガーが一族に加わったときの話 (まだメリーベルは人間)  と、行ったり戻ったりしながら話が進む。

時間をさかのぼり、人間達の話が並行して進んでいく複雑な時間構成は、数百年の時を旅しているバンパネラの時間の神秘を表していたと思う。

 

今回、バンパネラ研究家たちがポーの一族の歴史を検証するという演出で、話の流れは明快になったものの、その行きつ戻りつ時空を浮遊する感覚が消えてしまった。

エドガーがバンパネラとして生きる苦しみも、時系列順に描かれてしまうと、まだ具体的に何も起こっていないため伝わりにくい。

バイクらの明快な進行役がいることで、私たち観客はエドガーと共に生きることができなくなり、すでに出来上がった物語を読む傍観者になってしまった気がして寂しかった。

 

 

■耽美感が弱い

薔薇だけを育てている村、うらびれた古城、薔薇の花のスープと薔薇の紅茶、すきとおった銀の巻髪、濃霧に覆われた森、死の薫り・・・・漫画を流れている幻想的・耽美的な雰囲気が舞台では弱かったように感じた。

 

曲が明るいのも一因だったかと思う。

オープニングの曲やキングポーが目覚めるところ、オペラのような重厚さのあるコーラスやアリアが素晴らしかったが、他の曲は思ったより明るくて歌謡曲風味。

ギムナジウムの少年たちのロック音楽は面白かったけど、少々健康的すぎる。

もう少し古ぼけた深緑の帳をおろしてほしかった。

 

もっとも耽美だったのは、やはり明日海さんのエドガーそれ自体

バンパネラとなったときの死霊の青い目、夜の冷気が漂ってた。

柚香光ちゃんのアランも少年特有の危うい脆さと陰りが見事だった。

大老ポー、老ハンナも含め、登場人物達の視覚的な説得力は素晴らしかった。

 

 

■異端なものへの憧憬/人間として生きることの苦しみがまろやか

ポーのテーマは、バンパネラが異端として生きる苦しさ

その対偶のように、人間として生きることのむつかしさ、それを引き受けて生きていこうとする市井の人々の美しさが流れていたと思う。

 

私が大好きだったエピソードは、シャーロックホームズの帽子をかぶったジョン・オーヴィン。(「ホームズの帽子」)

彼はキルニー猫、チャチャ猫、マンドレイク、一つ目巨人などの英国の各地の魔物の伝説を追いかけているオカルトマニア。

「科学的に霊の研究をしている」 と権威的に主張する降霊術師と異なり、オーヴィンは、「歌と伝説の宝庫であるイギリス」の家に、柱のかげに、森の家に隠れている妖精たちを、その姿のままそっと愛しむ。

イギリスの風土を愛し、黄昏時にしか住めない生物を見るオーヴィンは、エドガーから 「魔法使い」 という親しみのこもった特別な呼称で呼ばれる。

 

悲しみやうらみを拒み夢の国に住み続けるエルゼリ、罪を引き受けながら生き続けるキリアン、八年間エドガーとアランに育てられたリデル、そういう人たちは、異端のバンパネラへの恐れと同時に憧憬を抱いている。

寂しさの中で生き抜く人間達と、永遠の孤独を旅するヴァンパネラの対比が、ヴァンパネラ達のひりつくような孤独に深みをもたせていたと思う。

 

そういう人間たちは、この公演では出てこなかった。

人間の苦しみの描写が少なくなったことで、ヴァンパネラの苦しみもわかりにくくなったと思う。

 

今回の舞台では、人間側の孤独を表す役を一身に担っていたのがアランで、れいちゃんはその重責をよく果たしていた。

バンパネラになった後の憂いを帯びた背中、エドガーを見つめる沈んだ湖のような深い緑の瞳の色は耽美的で、バンパネラの悲しみと人の悲しみが見事に溶けあっていた。

ただしアランの苦しみはあくまで、少年の苦しみ。

大人の人間の、選べるにも関わらず選べない苦しみと孤独についても見たかったと思った。

 

 

いかにもポーらしいと思った大好きな場面は 「ゆうるりと」

原作ではたった数コマしか出てこないシーンが、せつなく美しいシーンになっていた。

馬車の後ろを馬のスピードで駆けていく田園風景と、仮死状態となっているエドガーを両隣で見守るポーツネル夫妻。

シーラゆきちゃんの、憂いを帯びた歌声が素晴らしい。

たゆたうような歌声と、人間として最後の眠りについているエドガーの天使のような寝顔は、イニシエーションの悲しみと、コマとコマの間を漂流する感覚がよくでていた。

 

 

■極上のフィナーレ

退廃的でロマンチック。

宝塚的であり、花組的であり、ポーの一族の世界観ともあっていてこの世のものとは思えない。

 

血痕のような紅の電飾を灯した菫色の大階段の中央で、プラム色のシャツに身を包んで立つ明日海さんがあまりに美しくて息をのんだ。

襟元にたっぷりと襞をとったフリルシャツは、波打つ薔薇の花弁の如し

大人になったエドガーをイメージしているとのことだが、無造作に流したストレートの栗色の髪も妖艶。

 

大英帝国の鋼鉄を思わせるような鈍色の男役スーツも素敵だし、デュエットダンスのお衣装は繊細そのもの。

今月のGEAPHのコスチュームにも載っていたが、藍色がかった暗い紺のドレスは胸元が大胆に開いていて、華奢な黒レースの上に雫みたいにラインストーンが散らばってる。

ゆきちゃんの白いデコルテとピンクグレーの瞳がなまめかしくて、トップコンビが踊る姿の背後に月光が見えました。

 

 

薔薇の種類は二万種類あるというが、明日海エドガーを薔薇に例えるなら、エンジェル・フェイス(Angel face) だと思った。

アメリカ産のバラで、大ぶりの、くすみがかったモーヴ色の花弁をもち、澄んだ香りを放つ。

甘くて深い色で、ちょうど大階段のお衣装の色に似ている。

品格のある、天使と悪魔が、純粋さと蠱惑が入り混じった大人の色。

 

 

ポーの一族は、明日海りおの美貌と屈折した色気を存分に発揮できる大作だったと思う。

少年の愛らしさと色気、魔性を露わにするときのドラマティックな変化、歌っても動いてもしゃべっても走っても崩れない頭の上からつま先まで考え抜かれた妖気。見事だった。

 

ただの新参者に過ぎないのだけれど、それでも花組という宝塚の中でも特別な組で、100周年から宝塚の顔としてトップを張り続けてきたトップである明日海さんにはやはり何か特別な思いがある。

「ポーの一族」という、宝塚に、今の花組に、円熟した明日海りおにふさわしい舞台が今見られたことを、心から嬉しく思う。

 

一流のワイナリーでは、葡萄畑の周りに薔薇を植えているという。

大輪の薔薇は繊細で、気候の変化や害虫に敏感であるため、畑の状態を占う美しき目印となるそうだ。

明日海さんが本領発揮できている花組は、宝塚は、この上なく豊饒な宝塚に見える。

 


解かれた封印に、感謝の口づけを。