信仰というのは本来神仏に対する敬意と畏敬の念を伴います。
ブラタモリやそのほかテレビなどで仏教の僧侶が登場しますが、崇拝の対象は老いといてやはり神仏に対する深い畏敬の念を持っていることを感じます。
信仰とは本来そういうものです。
エホバの証人2世といってもそういう深い畏敬の念を持っている人たちを見かけます。もっとも彼らから特権を削除すると、大暴れする人もいるでしょうけどね。でもそうである人もいれば、そうでない人もいるでしょう。
何が問題だったかは明らかです。
特権という飴と体罰という文字通りの鞭で自在に子供を操ろうとした親が子供の心に敬虔な信仰を培おうとせず、いわばインスタントエホバの証人を作ったせいなのです。
勿論そういう指導をしたのが日本支部であることは間違いないのですが、それを容易に行わせたのは終末思想だったということです。
しかしこの終末思想がなければ仏教が深く根差した日本での布教は困難だったでしょうね。
娘を取り戻したいという母親が「1世になった気持ちも知りたい」と書いていましたが、たぶん私がいくら書いても読まないでしょう。ご自身のエホバの証人に対する強固な排除意識を煽り立てるものしか読まないわけで、実はそれこそが1世の親の特徴でもあったのです。つまり自分にとって心地よく、聞きやすい言葉だけに耳を傾けたのですね。