エホバの証人“だった”ことは邪悪な行為に手を染めた日本支部指導部にとって少しでも益があったのか? | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

私はエホバの証人になったことで良かったと思えることがあります。それは凶悪犯罪を含め、巷を騒がす事件などの行為に巻き込まれなかったことです。

 

罪を犯し逮捕される人たちの罪状が報道されると、中には社会的に尊敬されたり、評価される立場にいる人がそういうことに関与しています。東京五輪・パラリンピックに関わる贈収賄事件、飲酒による交通事故、そのほか数々の不正行為やあるいはセクハラを含めた性犯罪など一歩間違えば、そして自分がその立場にいれば罪を犯したかもしれないと思えることがあります。組織の中にいると、したくもないことをさせられるというのは森友問題で自死をした人を見ればわかります。あるいは追い詰めたほうになるかもしれません。その意味では私は自分の倫理観に絶対的自信があるわけではありません。もしエホバの証人にならなかったなら、悪事を働くことへの確かなブレーキを自分が持っているかどうか自信がありません。

 

あるいは一時的な怒りや衝動に任せて行動をして、犯罪の犠牲者になることも有り得ます。

 

しかしエホバの証人になったがゆえに、できる限り法令を遵守し、不正行為などに携わるような社会的地位になることもなかったが故に贈収賄事件に巻き込まれる危険から遠ざかるようにと保護されました。

 

喫煙や薬物の使用、過度の飲酒で自分は周囲の人に迷惑をかけることもありません。これらはもしエホバの証人でなかったら、薬物を除いて普通に手を出していた可能性はあります。

 

一方でエホバの証人になって害もありました。それは選民思想的な考えを抱くようになったことが一番です。それ故に「世の人」への感謝や思いやる気持ちを失ってしまいました。

 

ですからエホバの証人としての活動をしなくなって(それを辞めたというのかもしれませんが)、さらに良かったと思えるのは、そういう歪んだ感情を抱くことが間違っていたと深く後悔するとともに、今は周囲の『善』に対して深く認識するようになり、それが新しい発見となっているところです。

 

聖書の言葉はますます輝き、その深い意味と知恵を味わうようになり、神を身近に感じ、そしてその神の被造物である周囲の人たちを大事にしなければならないと思うようになっているところです。一方でエホバの証人であった頃に学んだ倫理基準は残っています。ですから税金も正しく申告します。

 

それゆえにエホバの証人時代に学んだ倫理基準は今なお保護となっています。

 

ものみの塔日本支部は、すでにエホバの証人ではなくなっています。常習的に嘘を吐くことは排斥事由になるので、彼らはその実質において「排斥された」も同然で、すでに「エホバの証人ではなくなった」のです。でもそういう彼らもベテルに入るまではもう少しまともなエホバの証人ではなかったのではないでしょうか。

 

「嘘を吐くこと」「贈収賄に近いサイモニ―」などを犯してはならない罪だと思っていたはずです。それ故に周囲からも評価されたかもしれません。

 

しかし今の日本支部広報は、それこそエホバの証人「だった」ころには決して犯してはならないと強く戒められたことを平気で犯すようになりました。彼らにとって「エホバの証人の過去」はもはや何の益をもたらしていないように思えます。

 

エホバの証人であることは罪から遠ざかるように保護するものとなりますが、今の日本支部はそういう倫理観は全くわきへ押しやられ、エホバの証人で「あった」ことが全く何の保護にもなっていません。

 

今宗教2世は「奪われた青春を返せ」だという鼻息で、取り戻せない過去の時間について不満を口にします。六積さんのように「エホバの証人だった時間は無駄だったし、失敗だった」と言う1世もいます。この人はもともとまじめな人でしたが、一方でエホバの証人現役時代に仲間に対する真摯な兄弟愛を示してこなかったようですので何も培っていなかったようです。

 

しかし本当に時間を無駄にしたのは日本支部広報と支部委員たちではないでしょうか。彼らこそ「エホバの証人」だった時間と努力がすべて身に着いていないことを示しています。それどころかエホバの証人でなくなって人間味のある親切を忘れ、その心は干からびました。彼らは最初からエホバの証人でなかったほうがまだましな人生を歩んでいたことでしょう。ちょっと聖句が見つけられないのですが、「彼らは真理の言葉を知らないほうがまだましだった。」という趣旨の聖句がぴったりとあてはまるのです。

 

「エホバの証人」であった彼らこそ、人生を無駄にしていましたし、それは真の意味で彼らがエホバの証人ではなかったということになります。幼いころは親のいいなり奴隷、成人してベテルに入っては統治体の本格的ないいなり奴隷と化し、結局本当の自分というのを見いだせないまま人生を歩んでいるのです。

 

彼らの口から出る言葉はまさに「鳴り響くシンバル」となっているのです。広報の回答文言、あれが鳴り響くシンバルなのです。

 

愚かな人生です。生きてて恥ずかしいと感じることもないほど恥ずかしい人生を歩んでいるのです。嘘にまみれた幸福感を味わおうとしているのです。