選民思想の怖いところは「義にすぎて」仲間に対しても刃が向くので、粛清を一片の躊躇もなく行えること | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「エホバの証人だけがハルマゲドンを生き残れる」という考えは、どのように、そしてどれほど屁理屈をこねようとまがいもなく「選民思想」です。

 

この選民思想の恐ろしいところは、自分たちは選ばれたものという仲間意識を持っていても、いつなんどきでもその思想の矛先が仲間に対しても向けられるというところです。それが批判に対して過敏になり、批判をおびえ、「裏切者は断じて許さない。」という強硬な姿勢に出てくる理由です。

 

「義にすぎる」ことは聖書的には罪ですが、ではどうしてそのようなことになるかというと、選民思想のせいで、「救われる条件」が尖鋭化し、選民である以上、より厳しい修行に耐えなければならないという考えを持つようになるのです。そうすることで、目に見える仕方で自他の差別化が行なおうとしているのです。

 

かつての連合赤軍の山岳アジトリンチ事件にしてもオウム真理教にしても、そして現共産党もそうですね。共産党体制を批判した党員を除名しました。連合赤軍にしてもオウムにしても元々頭脳に優秀な学生がのめりこんだのですが、そのこと自体すでに「選民」感覚は持っていた可能性は強いですね。

 

これらはすべて選民思想のなせる業なのです。小池議員が少し前の国会予算委員会で麻生副首相に対し、指をさして質問するという非礼な態度を示しましたがあれなども小池議員が選民思想を持っている証拠なのです。共産主義の考え方はそういう要素があります。中露朝もそうですね。

 

キリスト教には共産主義的要素がありますが、原始キリスト教に立ち返ろうとすればするほどそうなるのです。ただキリスト教をもっと正しく理解するならば、決して選民思想ではありません。これはキリストが「キリストの弟子のもっとも小さなもの(決してものみの塔の言う144000人級ではありません)」にした施し故に救われるものがいるという言葉や、パウロが「異邦人には良心という心の律法がある。」という言葉からわかります。また「義にすぎる」ことを禁じていることもそうなのです。

 

間違った選民思想かどうかがわかる判断基準は、その”選民”の中でさらに選民意識を持った人間が他の”選民”に対して少しでも落ち度があると激しく追及するかどうかで現れるのです。これは上記の例からもわかります。

 

ものみの塔日本支部の選民思想が仲間にも向けられるというのはスティーブンレットが自分たちを批判するものを、マフィア、テロリスト、麻薬常用者、そしてスカンクという言葉で表現することで明確に出ています。彼は批判におびえ「裏切者は断じて許さない」という間違った選民思想を持っています。その影響をもろに受けているのは日本支部です。それは次の言葉からわかります。

 

連合赤軍もオウムもテロリスト集団でした。共産党は公安の監視対象になっています。共産党員が国家に対する不安をあおっているのはそういう要素があるからです。福島原発処理水に関して、確かいまだにわざと「汚染水」と言いますね。

 

ものみの塔が仲間に対して粛清をする方法は排斥とそれに伴う忌避です。これらの処遇は言い逆らうものの特権をはく奪しよう、できれば目に触れないものにしようとする意図の表れです。組織内の取り決めを利用しようとするのです。元HLC委員も仲間の長老団の一人を処断しようとしましたが、これは仲間に対して、この人物の「選民思想」の刃が向けられるのです。この人物が選民思想を持っているのはそのHNからもわかりますし、選民思想を持っているからいつも演壇から話をするような文体になっています。この人物が仲間の長老の削除を企図したのはまさに「義にすぎていた」結果ですね。しかしそれはものみの塔組織の特徴でもあるのです。そしてそういう特権にあこがれるが故に同調する人もいるのです。この人物に同調する人も組織内の特権を得ていた人、即、大物という感覚が持ち続けているのです。彼の場合は他人を粛清しようとして、自分が粛清されたのです。

 

子供への体罰も選民思想があるがゆえに、わが子を選ばれたものにしたい、そして組織内で上位の特権を得て、周囲の子供よりも優れたものにしたいという願望の表れの場合もあるでしょう。

 

「選民思想」の怖いところは、条件に適っていない人間は滅びても仕方がないと思うようになり、やがて非信者の感情に無感覚になっていきます。それはサイコパスへの道を歩み始めていることになるのです。私自身もそうだったということを認めなければなりませんし、それは大いに恥ずべきことでした。