正直なところオリンピックの時ほど自国選手のメダル獲得の時と比べ興奮があるとは言えません。勿論自国選手のメダル獲得そのものは良かったなと思います。ただそれよりも外国選手たちの活躍も十分素晴らしいことだと目に移ります。
15%12億人の人たちがハンディキャップを負っているということ自体その人たちの存在が社会において重きをなしているわけですが、その方々にしても健常であったにもかかわらず突如事故や災害でハンディキャップを背負うことになった人がいます。
おそらく同じような境遇にいる人たちはオリンピアンよりもパラリンピアンの奮闘する様により多くの感動と生きる力をもらっているのではないかと思われます。
そうなるとなにも自国選手に限らず世界でハンディを抱えている人たちがそのハンディを隠さず全力を尽くすさまはうつむく思いを少しでも和らげるものではないかと思います。特に水泳を見ていて感じます。
またハンディを負う人には支える人もいます。視覚障碍者の陸上男子5000m走では、伴走者が入れ替わることで常にアドバイスを送りました。伴走者は複数いて、そのスタッフが入れ替わることで選手を導きます。そしてメダルを取った選手のみならず伴走者も喜びを分かち合います。与える人も与えられた人から与えられます。これは社会において介護や看護をする人たちにとっても、縮図となっている気がします。
オリンピアンが「支えてくれた人のお陰です。」と言いますが、パラリンピアンの場合その支える人が数倍もいるのでしょう。その人たちがいればこそです。
勿論メダルよりも健常な体を与えられることが最大の望みであるでしょうから、健常な人が迂闊に称賛することはかえって彼らを侮辱したり傷つけるのではないかという思いはあります。ヘタな言葉は偽善的にみえるでしょう。だからテレビでのコメンテイターの言葉にしても、その世界を熟知していたり、その世界で働いている人以外の言葉は何か空虚に響きます。構成上致し方ないのでしょうけど。
でももし自分が事故に遭って以前の身体を取り戻せない状態になるのは今日明日にでも起こりうることです。その時にパラリンピアンの活躍は今とは異なる感動を与えるのではないかと思います。生まれながらハンディを背負っている人たちは以前の身体がどういうものであるかを知らないだけに、生きていくことにどれほど気持ちがくじけそうになるかと思うと、そのハンディを克服しようと懸命に生きているさまはスゴイの一言です。
そういう人たちがパラリンピックに出場することはそれこそそれを目指す日々は、晴れの舞台があってこそできるもので、だからこそ12億人の励みになる舞台は、開催する意義があります。数少ないスポットライトを浴びるチャンスであるからこそ、そのチャンスが失われるのは大変残念なことです。ですから東京パラリンピック開催は意義がありました。そういう事に思いをはせることができない反日勢力が相変わらず無慈悲な反対運動をしていましたが、そういう人間たちの運動など無視してよいでしょう。
もう一つ感じたのは突然の事故でハンディを背負う人たちのことを考えると、自分自身がそういうハンディを人に負わせてはならないということです。その可能性が最も高くなるのは車の運転です。登下校時に小学生が楽しそうに歩いています。その子供たちに決して障碍背負うような傷を負わせてはならないと思います。任意保険に入っているから大丈夫というようなものではありません。勿論子供に限りませんが。
慎重に慎重に車の運転をしなければなりません。パラリンピアンの境遇を戒めとしてハンドルを握らなければなりません。