WT的思考ー「ゼロか100か」1 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

さて一応整理しておかないと今後の私のWT批判に関しても前に進みそうにないので私の認識を示すためにも改めて記事にしておこうと思います。


私の考えはsphereさんが非常に明確に解説してます。彼の言葉をコメント欄に埋もれさせておくのが惜しいのでその言葉を引用させていただきます。引用は青字です。


まず本当のWT思考とはどういうものかについてですが、それはゼロか100という価値判断です。


とくにこの価値判断の仕方は2世の方々に対しては非常に有害なものです。私は1世で、学んだのは高校生の時ですがそれまでに数多くの本を読んでいてそれなりの自分の価値観はありました。これはWTの教えを取捨選択できる点で2世の方々とは決定的に違うことだと思います。


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世の場合は、聴く音楽は賛美の歌だけ、読む本は協会の出版物だけ、娯楽は聖書ゲームだけ、交わる人は組織内の人だけ、高校卒業したら開拓奉仕、しかもそれが自分の選択ではなく、すべて親からの強制であり従わなかったら鞭をされました。


この抑圧的指導がいびつな精神と物事の価値判断に大きく影響を与えたと思います。


もちろん平衡の取れた親や長老も中にはいましたが数の上では一握りでしたね。



一方私は聖書は聖霊を受けたもの、出版物は聖霊を受けていないという認識でずっと過ごしてきました。


この点も、もともと私はWT組織の教えをそのまま真に受けゼロか100という思考はなかったのです。周囲がどうあろうともです。


(ブログ姿勢を見てもわかるように私は衆に影響されることはありませんでした。)


組織に交わっていても私自身はそういう考えですからゼロか100という指導は個々の成員の個人的判断と価値観であるので、それぞれがその責を負うべきだと思っています。


以前にも引用しましたが、


組織の言うことに従うと命を失うと考えたきっかけ




の中で組織の指示は「カエサルのものはカエサルに」という原則を犯していると判断し、周囲はともかく私は周囲に自分の良心を表明し、自分がどういう対処をしたかを表明しました。



また


非常に危険な「手紙証言」



の懸念は私が組織在籍当時からもあり、会衆内で行われる長老としもべの集まりでは自分の住所ではなく王国会館の住所と電話番号を書くのが安全ではないかと提案し採択され私の会衆ではそのように行いました。

日本支部が責任を負いたがらない以上せめて会衆で責任を負うことが羊を守ることではないかという思いからでした。



ですから私自身を盲目的指導をしていた人と同列に置き、「懺悔しろ」と言われてもそれは私個人に対しては不当なものであり、乱暴にしか聞こえないのです。私は組織に交わっているころからもWT独自の生活規制には好意的には思っていませんでしたから。


振り返ると、高校生の時は卒業後の進路は開拓奉仕という考えもありませんでした。

これは当時から高校卒即開拓奉仕をしている人たちが無教養に見えたからです。

野外奉仕で大学生あたりが反論したりすると、言い返せずに黙り込んでしまうJWの姿に失望したことは数多くあります。


私の考えは「聖書を学んでいるから、開拓奉仕!」という組織の短絡的指導ではなく、自分が進学した社会で聖書の言葉をどう活用できるかという視点でした。


一方で聖書の道徳的な教えを分かりやすく解説し、納税を含め仕事では時間泥棒にならないようにという点で正直に生きることを教えられました。キリストはもちろん、私は使徒行伝でパウロが死を覚悟しても宣教のためにエルサレムに行く決意をしたあたりは涙が出ました。


卑怯な手は使わない、姑息なやり方は嫌悪する、集団で誰かを攻撃しない、理にかなっていることなら自分の思いよりもそちらを優先させる、そして真の勇気とはどういうものか、目上の人に対する敬意とかを教えられました。


いずれも聖書を学ばなくてもわかることだとは言いますが、わかっていてもできないのが人間でありそれを訓練するのが野外奉仕や兄弟姉妹との接触でした。


ですから全否定できないのです。


そして私に全否定させようとする姿勢こそが、まさにWT組織の教えそのものです。「WTは間違った組織だ、それに気が付いたのだからそこで真剣にしていたことなど関係ない。」という論理は実はゼロか100の考えだからです。


私はそういう思考は持っていません。


sphere
さんが「ふと思ったこと」の記事コメント2でこう言っておられます。


全部エホバの証人が悪い
そこで提供されるものはすべて悪
正しいものもあるという見方はまだ抜けきってない証拠
わたしはこの極端な考え方こそいかにもJW思考だと思うのですよね。

(中略)

絶対的に正しいと信じていて、裏切られたと思ったら絶対的に間違っていると考え方が振り切れる下線部は「メーターの針が左から右へと振り切ってしまうように極端から極端へと移行する」という意味)のは結局JW思考だと思います。

それこそこの組織は「良いものもある」という考えを認めません。
この世にも良い人はいる、良い政治家もいるとか認めません。
全部滅ぼされます。

JW
には間違っているところもゴミのようなところも良いものもある、JWに対してもそう考えられるようになれていることは、それこそJW的思考から解放されている証だと思います。



たとえばカトリック信奉者がWT組織に入ろうとする場合はWT組織は以前の歩みを悔い改め、「大いなるバビロン」へ脱会届を提出しなければなりません。私自身は自分の生き方に聖書をどう役立てていくかという視点で考えていましたし、また組織の教えがそのまま聖書の教えという考えもありませんでした。



カトリックの歩みすべてを否定しその中の業績を一切認めない方針です。

これがWT組織のゼロか100かの思考です。


レイモンドフランズが良心の危機の中で、今の洞察の本の前身である「聖書理解の助け」を編集する際にカトリックの文献も調べ、「私たちはキリスト教世界を激しく非難しているが、そこには優れた研究成果もあるのでそれは評価しなければならない。」といったのはゼロか100かの思考からの脱却を意味しています。


ですから私に質問しておいてその答えに満足せず、あの答えしか引き出せなかった、桶はWT組織がすべてのものを捨てて懺悔しろというものと同じであり、

結局WT組織の思考の型そのままの要求を突き付けて来たので私は「桶さんらしくない」と言われてもそこに違和感を感じて、論じたのはそこにあるわけです。