個々の統治体の成員が尊敬に値するものではないというのは前にも書きました。
単に知識を持っていても所詮鳴り響くシンバルでしかありません。
しかし組織としていつでもかつでも全面的に従うと命にかかわるぞと感じたのは
完全寄付性移行期における大会での振る舞いに対する指示でした。
巡回大会前に長老&しもべは部門の集まりというのに出かけます。
その時に出された指示は「大会会場で飲食物の寄付額を一切口にしてはならない。」というものでした。
すでに巡回監督から会衆への手紙でも発表されていました。
それまで大会会場では食事や喫茶が提供されました。
弁当、うどん、クレープやチーズケーキ、アイス、ドリンクなどそれはそれは美味しいものがたくさんありました。
それを自分たちで作って提供するのです。そうそういわくつきの「マドレーヌ」もありましたね。
そしてそれらの寄付額が喫茶部門の後ろに価格表のように掲示されていました。
しかしそれらが一切掲示されなくなりました。
各会衆には事前に寄付額が通達されており、各人はその寄付額をしっかり暗記して自分で計算して寄付額を寄付箱に入れるようにという指示です。
喫茶を提供している兄弟に「これはいくらですか。」と絶対尋ねてはならない、
もし価格がわからなければ近くにいる親しい兄弟や姉妹に尋ねなさいという指示でした。
ですから大会前には奉仕中にきちんと暗記しているかどうか姉妹たち同士でよく話していました。
その時の集まりの司会者であった大会監督はにこにこしながらはっきりこういいました。
「税務署の目が光っているからです。」
ちょうどマルサの女がはやったころだったと思います。
宗教組織の商業活動とみなされる行為に国家が税金をかけるらしいといううわさが広がっていました。
野外で出版物の寄付額を言わなくなったのもこのころです。
さて私はこの時の部門の集まりが終わったとき非常に複雑な気持ちになりました。
仮にもし大会監督の言う通りであったのなら、これは脱税じゃないだろうか。
私たちはその片棒を担がされているんじゃないか。
これは聖書解釈の是非というレベルの問題ではなく法的問題じゃないだろうか。
組織のためになら、たとえば迫害で集会が禁止されたとしても、その禁令には従わない、つまり非合法なことでも行うという見解の人もいるかもしれませんが、これは少し問題の質が違うぞと感じました。
別に迫害でも何でもないです。私個人としては仮に税金をかけてきたとしても堂々と払えばいいじゃないか。
カエサルの物はカエサルにというのが聖書的原則です。
私が不思議であり少し怖かったのはこのことに私と同じ疑問を持つ人が周囲に皆無だったことです。
「組織の言うことだから間違いないよ。兄弟気にしすぎだよ。」と言われました。
頭が悪いのか、良心が弱いのか。
「組織の指示」となると一切の思考をやめてしまう人が模範的JWであり組織崇拝に向いている人たちでした。
私が「これは官憲の目をごまかしてるんじゃないか」と話すもんなら組織万歳姉妹たちは私をにらみつけましたね。
おやおや、でしたね。
この時にふと頭をよぎったのはもし組織が急きょ方針を変え
反社会的行動を信者にけしかけるなら実行するんだろうなということです。
2年くらい続いたのでしょうか。
私は個人的に対処しました。つまりこの取り決めの時大会会場では一切飲食をしないということです。
近くのレストランに行くか、遠いところでは車で大会会場を後にしました。
奉仕で忙しいときには絶食でしたね。飲料は家から持参しました。
それでもまだ開拓奉仕は続けました。まだこの組織が神の組織だと思っていました。
ただすべての指示に従うことは神の前では危険ですし、
信者が聖書で培われた良心が苦しむような指示を出す組織の指示はよく自分で吟味しなければならないという認識を持ちました。
尤もそれまででも高等教育否定の組織の見解は受け入れられませんでしたが。