去年のクリスマスイブの朝。
居間から庭に下りる置き石の上にあった庭仕事用の長靴が、
数メート離れた畑の上にポンポンと右も左も投げ出されていた。
カラスのいたずらと思った。
それにしても、初めて見る仕業で、驚いた。
長靴は、母のものだった。実家の片付けで持ち帰ったものだった。
その夜、母は、遠く離れた地で亡くなった。
私には、随分前から、「ある思い」があって、近頃それが確信になっている。
母は、あの日、目覚めて、今日、命が尽きることを悟ったのだと思う。
私のことを思い浮かべた母は、痛烈に、私に会いたかったのだと思う。
母は、その思いのしるしとして、長靴でいたずらをした。
いたずら、と言ったのは、この時の母の思いに悲壮感はなかったと思うから。
母は、そういう人だった。
常日頃から、私に対し、
「あなたのように深く物事を考えると世の中がつまらなくなっちゃう」、
と笑いながら言ってのける人だった。
ここからが、「ある思い」の本題。
人は強い思いがあると、思いの先に「しるし」を送る。
ただ。
肝心なのは、受け取る側にそれを受信する能力があるか否か。
あれば、目に見える形となって、現れる。
受け取る側もそれを見逃さない。
偶然が偶然を呼ぶのではなく、必然の先にさらなる必然が用意されている、ということ。
クリスマスイブの朝。
長靴のいたずらが成就したのは、私に、母の思いを受け取る能力があったからだ。
自慢?うん。自慢。
ただ、この能力は、私がアーシングに全幅の信頼を寄せているから備わったに違いない、と思っている。
毎夜、目に見えないものと、目を閉じて繋がっている感覚は心を謙虚にし、心を温めてくれる。
わかり易く言えば、寂しくない。この満たされ感が、信頼に繋がっていることは言うまでもない。
生きている人の思いが、生きている人に届く。双方は、同じ大地に生きている。ここが肝心だ。
あの日、母の思いが、大地を通して私に届いた。
大地の力の力強さ(内なる力)が、実体を持って示された、と思える。
母は私の文章を読んで、
「あ~あ。また難しいこと言ってる」って笑っているに違いない。
でも、思いが届いたことを喜んでいると思う。
