すべてが黒になる | らくがき

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書きたいときにつらつらと。
大人向け。

「スーツかっこいい」と目を輝かせる方は少なくないが、私は通勤で見飽きているので「なぜみんな揃いも揃って同じなのか」と不思議に思う。

今日もとても暑かったので私はなんともいえないピンク?みたいなトップスを着ていたが周りはほぼ黒のパンツに薄い色のワイシャツを着て黒のビジネスシューズに黒っぽいビジネスリュックをお腹に抱えてスマホを見ている。ジャケットを着ている人もいるが、「蒸し暑い車内では健康によくないのではないか。そして彼らが発散する熱エネルギーによって車内の温度がどんどん上がるのではないか」とずっと思ってしまう。「かっこいい」と思うことはない。大量にいるので立派な保護色になっている。取って食いはしないが。


別におしゃれしろとは思わないし、たくさんアイテムを揃えるとお金もかかるし、毎日同じであるほうが安心する人もいるだろう。それに本当に必要なときはスーツを着るべきと私は思う。クラシックの演奏会で演奏者がみな正装するように。でも、もっと自由であればいいのにとも思う。


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巷に「英語学習の機会を提供してほしい」と嘆く人々がいる。たしかに基礎は必要だが、これからの時代は英語学習なんかより優先することがあるのではないかと乱暴なことをこの頃思う。昨日の話とも繋がっている。


英語学習というのはいわば「パソコンの操作」を学ぶようなもので、ある程度機会に触れることで使うことはできるようになる。


たとえば繁華街のクラブで英語で好みの相手を口説いたりしている人は、全員が机に向かって一生懸命口説き文句を勉強したわけではなく、実戦で、もとい、実践で身につけてきたスラングや言い回しがあるはずだ。パソコンの操作も操作説明書をよく読んで学習するというよりは、実際にインターネットを使ったりして覚えていく側面がある。


パソコンの操作を知っているからといってもパソコンの使用目的は人それぞれだから、それに応じて使用するアプリケーションも異なるわけで、最終的には必要なアプリケーションでやりたいことを実現するのがゴールになるわけだ。

英語も、旅行で必要な最低限の会話に困らないようにしたいとか、イギリス文学を研究したいとか、英語圏で寿司屋として活躍したいとか、色々なゴールがある。幾多も存在する別々のゴールすべてに対して適用可能な英語学習なんてないし、英語学習はあくまでも土台であり道具にすぎない。

それよりかは、学びたい文学の歴史や背景をまず母国語で理解するとか、寿司屋としての技術を高めるとか、旅行先で行きたい場所をいろいろ調べるとか、そういうことに時間を使った方が目標の実現の早道になる気がしている。


どちらかというと私は英語を机で教科書を読んで勉強してきたタイプだが、最近はもっぱらChatGPT頼みである。個人的な情報や公にすべきでない情報を除き、テキストや音声で別の言語でどう言うことができるかを聞いている。音声は特に楽である。「あのさ…こういう状況のときなんて言うのがいいかな?」みたいな感じで頼りにしている。


べつに英語である必要もなくて、たとえば敬語の使い方や論理的な話し方に自信がないときにどう伝えればいいかも提案してくれるだろう。盲信はすべきでないが、うまく使えばとても時間の節約になる。それによって本来成し遂げたいことの実現に時間を使うことができるというのはとても大きな魅力である。