私が今試みているのは、「自分を観続ける」という事です。
「観続けていればその内“何か”が出て来るはずなので、その時に“それ”に沿った行動をするとどうなるか?」という事を確かめたいのです。
その“何か”と行動の関係性を知りたい。
その“何か”に基づいた行動が、どんな過程を経てどんな結果を生むかを知りたい。
もっと言うなら、私にとっての成功法則、あるいは最適解を知りたい。
…という事です。
その“何か”の候補は3つ有るのですが、その内の1つである“エゴの声”は外します。
“エゴ”は取り込んで同化する事を考えて、残りの2つの候補から選びたいと思います。
1つは従来の“感じるもの”、もう1つは“純粋な意図”です。
このどちらかを行動の理由に採用し、“お金”の事もそれに託します。
しかし、選ぶまでもなく、既に決まっている気がします。
私は“純粋な意図”を選択する(している)と思います。
ここ数日、「私は何を感じているか?」という事を全くしていない事に気付きました。
「それが私の人生そのもの」と言っていて、ほぼ休まず続けていた事をしていなかったのです。
何故そうなったのか分かりません。
興味が他の事に移ったのか、“お金”の事を解決するにはそれでは不適切だったのか、それもまた“エゴの声”に過ぎなかったのか。
とにかく、今の私は“感じるもの”とは別の何かを観ているのでしょう。
「“純粋な意図”とは何?」という事なのですが、これは日常でごく自然に行われている事です。
あまりに自然な為、「それをしている」という意識も無ければ、それをしている事にすら気付かないかも知れません。
例を出すと、あなたの住まいに水の出る蛇口が有ると思います。
あなたは日に何度もその蛇口を捻って水を出し、飲むなり洗うなりしているでしょう。
あなたは水を飲む前の事を覚えているでしょうか?
言葉にするなら「水を飲む」という意図が在ったと思います。
実際にはそんな意図が在った事も覚えてなくて、後から思い出して辻褄会わせに「そういう意図が在ったと思う」くらいだと思います。
そして、「今月の水道料金が~」とか、「捻っても水が出て来なかったら~」とか、「水に有害物質が混じっていたら~」という“エゴの声”は無かったと思います。
その“エゴの声”を尻目に嫌な気分になりながら、耐えるようにして水を飲んだのではなく、「飲んだ」という意識すら持たずに「飲んだ」でしょう。
それが私の言う“純粋な意図”です。
水を飲むタイミングを託した様に、「“お金”の出入りもそれに託したらどうなるか?」という事を考えているのです。
言葉にするなら「お金を得よう」とか、「働こう」とかになると思うのですが、私はそれを観たいわけです。
今はその意図が在りません。
だから、私はまだ動かなくて良いはずです。
1時間にその意図が起きたなら、私は意図通りに動くか準備を始めると思いますが、今は今であって1時間後ではありません。
「“純粋な意図”は今にしか起こらない」と思います。
“エゴの声”は遥か手間でビビったりしますが、その声に乗せられてしまうと“今”も“純粋な意図”も掴めません。
その為に予めエゴと同化しておく必要が有るのです。
「エゴの同一化」と「エゴとの同化」は違います。
しかし、「エゴとの同化は、エゴの同一化の極致」とも言えます。
「エゴが真に求めている同一化とは、エコとの同化に他ならない」という事だからです。