色々イメージしてみると、「“お金”に追い詰められる」の“お金”は“税金”の事だと思います。
要するに、「“税金”が支払えなくなるまで追い詰められる」という事ですね。
確かに、私は“税金”に良いイメージは持っていません。
電気・ガス・携帯料金は私が「無いと困る」と望んで契約して、その使用料を「支払っている」ので、「そうするのが当たり前」と思っています。
ところが、“税金”は「無い方が良い」と思っているせいか、強制的に徴収されているようにしか思えず、「取られている」としか思えません。
「支払っている」と「取られている」は、同じ「“お金”を出す」でも感じ方が雲泥の差なのです。
私は電気代を「取られている」とは表現しません。
「支払っている」という認識すら薄く、単に「そうである」という感じです。
“税金”もこうなれば、私は“お金”の問題をクリアー出来るかも知れません。
そこで、「この“税金”を観てみよう」と思います。
この“税金”は、私の中に在る“税金”です。
“税金”に対するネガティブなイメージ(思い込み)ですね。
YouTubeでもやたらと政府や財務省に関連する、「“税金”がどうこう」という動画を目にしていますので、「多分そういう事なのではないか?」と思います。
政府が「海外に援助をします!」とか、「国会議員の歳費を上げます(あるいは据え置きで高いまま)!」とか言うと、「『財政が厳しい』と言って“税収”を取っておきながら、それはどういう事だ!」と憤る事が有ります。
そこで私は、「『財政が厳しい』とは、早い話が『“お金”自体は有るが、自国民に出す“お金”は無い』と言っているのだ」と勘繰ります。
そう思うのは、私の方も「『“お金”自体は有るが、“税金”として出す分は無い』と思っているからだ」と考えてみましょう。
このせいで私が“お金が無い”を感じるのなら、不利益を被っているのは私の方です。
ちゃんと“お金が有る”のに、“お金が無い”を強く感じてしまい、その結果“お金が有る”が見え(感じ)難くなっているとすると、私はどうするべきでしょう?
そこを考えると、「“税金”を観るべきではないか?」という事になってしまうのです。
私の中に在るものは否定出来ません。
私の中に“税金”が在るなら、それを最善の形で受け入れなくてはなりません。
「私の求めた“お金”は“税金”だった」という事さえ有り得るのです。
言葉としてはおかしいですが、私は「“税金”を受け取る」という事が必要になるかも知れません。