“無い”が在る | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「向き合う」とは、基本的に都合の悪い事に対して使われる言葉です。

 

都合の良い事に対しては、「向き合う」なんて言い方はしません。

 

「初めから歓迎してそちらを向いているから」です。

 

「“お金”と向き合おう」とするからには、「“お金”に対する都合の悪い事実が有るから」と考えてほぼ間違いないと思います。

 

都合の良い部分は初めから歓迎出来ているわけですから、後は都合の悪い部分を受け入れてしまえば、何の憂いも心配も無くなるというものです。

 

 

 

私は前回の記事の後、「“お金”を受け取れば良いのか?」と考えました。

 

そして、「“お金”を受け取る」という意思を持ちました。

 

手応えとして伝わったような気がしたのも束の間、「受け取るのは“お金”とは限らないのでは?」という疑問が起こりました。

 

それでも受け取る事自体は正しい気がしたので、「何を受け取るのか?」までは追求しませんでした。

 

いや、追求出来ませんでした。

 

「追求しよう」という意図が起こらなかった為です。

 

 

 

「追求しよう」という意図が無い以上、私は「今、何を感じているのか?」という原点に立ち返る他ありません。

 

そこでジッと感じていると、次第に「“無い”と言っていないか?」と思うようになりました。

 

「“無い”が在る」とか、「“無い”を感じている」とか、そういう感じです。

 

事実、“無い”という言葉に弱くない反応が在ります。

 

私は「これは“無い”で良いのか?“無い”を受け取れば良いのか?」と考え始めています。

 

 

 

「これは本当に“無い”なのか?」を検証する事からスタートします。

 

スタートがコケているとその後も全てコケる事になるので、慎重に検証せねばなりません。

 

同時に「“無い”とはどういう事か?」も考えようと思います。

 

本来ならば「“無い”を確定させるか。“無い”の本質を掴むか」のどちらか片方に狙いを絞るべきかも知れません。

 

でも、私は「そうしたいから」という理由でそうするのです。