「生きるとは何か?」を考える3 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

「生きている」と「生かされている」は別の話です。

 

私は「生かされている」を「生きている」とは呼びません。

 

家畜や養殖されている魚を想像してもらえると良いでしょう。

 

己の命が他者の都合に左右されている状態、己の命を他者に握られている状態、己の命を他者に依存している状態を、果たして「生きている」と呼べるのでしょうか?

 

私も「自力で生きている」と本気で思う程傲慢ではありませんが、少なくとも今は「他者に己の命を委ねていないし、委ねるつもりも無い」とは言えます。

 

 

 

話の流れで、逆の方向から「生きるとは何か?」を考えたいと思います。

 

「生きている気がしない」と感じた経験が有る人は少なくないと思います。

 

私もそうです。

 

では、「どういう時にそう感じたか?」を考えてみます。

 

非常に強い束縛の中に居たり、自分のしたい事が出来ずにいる時、そう感じるのではないでしょうか?

 

ここに「生きるとは何か?」を知るヒントが有ると思います。

 

 

 

本来、「生きるとは“自由”だ」と思います。

 

しかし、対価として“責任”を受け入れる必要が有ります。

 

私の中では、“自由”の反対概念は“不自由”でも、“束縛”でも、“制限”でもありません。

 

“責任”です。

 

「他者に己の命を委ねない」という“自由”を得る代わりに、「起きた事は全て自分が原因」という“責任”を負うのです。

 

「生きるとは“自由”だ」と言うのであれば、「生きるとは“責任”だ」とも言わなくてはなりません。

 

 

 

“責任”で思い出したのですが、私には妙に強い責任感が有る事を自覚しています。

 

それは他者との関わりの中で発揮される性質であり、私はあまり良い気持ちを抱いていません。

 

他者の目(評価)に価値を感じない私にとって、責任感というのは「窮屈で有るだけ不便・邪魔」なのです。

 

この責任感を追求してみるのも悪くありません。

 

私が望んで得たものではなく、「そうである事が良し」と思い込まされたものであるなら、私は「捨てた方が良い」と思います。

 

 

 

私が“責任”を負うのは私自身に対してのみです。

 

そういう“責任”まで捨てるつもりは有りませんし、捨てる事は出来ないでしょう。

 

私が「捨てた方が良い」と思っているのは、私が自ら背負った“責任”ではなく、他者から背負わされた“責任”です。

 

世間一般で言う責任感です。

 

その為に、これから責任感の本質を追求します。