何をやっても良いんじゃないか? | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

今朝、目覚め直後の半覚醒状態の時に、「“金”か?“仕事”か?“収入”か?」と自身に訊ねました。

 

それは、「私の内に在る“金”は何の事を指すのか?」という、未だに解決の糸口を掴んでいない疑問に基づいての事でした。

 

否定的な反応は有りません。

 

さりとて、肯定的な反応も有りません。

 

「どれも違う」とも言えず、「どれも違わない」とも言えず、「それはそれで正しいが、求めているものはそうではない」と言った感じです。

 

 

 

その事を忘れて、起床して家の用事を済ませている時です。

 

「何をやっても良いんじゃないか?」という閃きが起こりました。

 

それから、「“金”を得る為に何をやっても良い」という意味なのか?

 

自身でも知らない内に行動に制限を掛けているのか?

 

“金”の本質は「何をやっても良い」なのか?

 

そうやって色々な疑問が芋づる式に出て来ました。

 

私の今の行動基準とも合致し、いずれも今までに無かった可能性なので、洗う価値は有るでしょう。

 

 

 

私はかつて、「感じている事を言葉に出せる様になりたい」と望みました。

 

それは今や当たり前の事になりましたが、そこには「言葉にして出す」という以外の行動は含まれていません。

 

今の私の望みは「感じている通りに行動する」です。

 

これは感じているものを行動として出す事です。

 

もし、これを実現出来る様になれば、感じているものを自由に出力出来る方法が2つになります。

 

「言葉では出せるが、行動では出せない」とか、「行動では出せるが、言葉では出せない」という出口が1本しかない状態から、「言葉でも行動でも出せる」という2本の出口を持つ状態になるのです。

 

 

 

“金”の本質は行動の中、感じるものを行動として出せる様になった私に在るのかも知れません。

 

感じる通りに行動する事にお金は要りません。

 

これは現時点でも間違いの無い事です。

 

「今有るだけのお金で出来ない事を感じさせる」という事は基本的には無いと思います。

 

もし、それでも本当にお金が必要な事で、今足りないのだとすれば、「お金を得る為に行動せざるを得ない様なものを感じさせるのではないか?」と思います。

 

どっちにしろ、感じている通りに行動出来る限り、「お金が無いせいで何かが出来ない」という事にはならないでしょう。

 

 

 

それを確かめる為に、私が自ら実践して検証しなくてはなりません。

 

今度は必ず行動が伴って来るので、出不精な私にはしんどいですが、“このままではまずい”が発動されると流石に動かざるを得ません。

 

あれはあれで、私を動かすのに充分過ぎるエネルギーなので、意図的に利用する手も有るのですが、かなりメンタルが削られる様な感じがするものなので、「出来る限りは違うエネルギーで動ければ」と思います。