貰おうとしている限り、理解は出来ない | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私が“金”を知らないのには、相応の理由が有ると思います。

 

おそらく、私は貰おうとする一方にあるのです。

 

このままでは“金”を理解する事は出来ません。

 

それは全く“恋”と同じです。

 

まずは貰おうとする事を辞めなくてはいけません。

 

「貰おうとする」を「得ようとする」と表現しても正しいですが、「貰おうとする」の方がより生々しいのでこちらを採用します。

 

 

 

どうやって辞めるのか?

 

それは私に出来る事ではありません。

 

また、これ以上私が出来る事も有りません。

 

私という客体を通して、主体がその事を知れば、勝手に辞めると思います。

 

何故ならば、“今”の私の目的は「“金”とは何か?」を知る事であって、“金”を貰う事ではないからです。

 

「目的も手段も間違っている」と悟れば、正しい目的に向けて自動修正される事でしょう。

 

 

 

私はもう感じるという事をしていません。

 

意識して感じる事に集中せずとも、楽に同等の結果を得られる事が分かりました。

 

感じている事に気付いたら放置する。

 

「放置する」とは“今に在る”と同義です。

 

それでイケます。

 

 

 

誰も彼もが“金”を欲している。

 

それが私の見ている“世界”です。

 

実態は違っていても、“今”の私にはそうとしか見えません。

 

得られる情報は常にその事ばかりで、それを覆すに足る情報は全くと言って良いくらい私の目には入って来ません。

 

それはきっと、「“今”の私がそうだから」なのでしょう。

 

 

 

私はそんな“世界”を「駄目だ」とも「変えよう」とも思いません。

 

私に出来る事ではないし、その必要も無いし、そもそも目的が違うのです。

 

しかし、“金”を知る為に“世界”の見方を変える必要が有って、その副産物として「“世界”が変わった(様に見える)」という事は有るかも知れません。

 

それは期待する様なものでも、新たな目的に取って変わる様なものでもなく、豆腐で言うならオカラの様なものです。