主体と客体に分離した時は主体側が自分である。
認識出来るものは全て自分ではない。
ここまでは良いでしょう。
しかし、「主体と客体に分離する前は何?」という疑問が残ります。
何故認識出来るのか?
何が有る(在る)から認識出来るのか?
本当の自分が居るとするなら“ソイツ”ではないのか?
…という疑問です。
おそらく“コイツ”は認識さえすれば何にでも成れると思います。
“コイツ”が「自分はコレ!」と認識したものが自分に成るのでしょう。
また、「有る!」と認識すればそれは目の前に現れ、「無い!」と認識すればどこを見てもそれは見付からないのでしょう。
「“コイツ”は何でも思うがままに出来る」と言っても過言ではありません。
しかし、“コイツ”を以てしても目の前に出現させられない(と理論上は思われる)ものが有ります。
“コイツ”自身です。
認識客体となり得ない“コイツ”は、どうやっても「認識する」という形で現す事は出来ません。
その方法が有るなら「認識するという方法以外で」という事になります。
もし、“コイツ”が“コイツ”自身を望んだ場合はどうなるのでしょう?
“コイツ”が「本当の自分は何なのか?」と疑問に思った場合はどうなるのでしょう?
それとも、“コイツ”はそういう事を望んだり思ったりはしないのでしょうか?
ならば、私がそれに興味を抱いているのは何故でしょう?
やっぱり“コイツ”とは何の関係も無いのでしょうか?
私に出来る事は「“コイツ”は何?」と問い掛ける事だけです。
“ソイツ”が居ない(無い)と何もかもが成り立たないはずです。
“全てを成り立たせている何か”が無ければ、「何かを認識する」という事すら出来ないでしょう。
答えが有るなら“ソイツ”は何と答えるのでしょう。