“ひとつ” | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

何かを認識すると、認識主体と認識客体に分離します。

 

「認識とは分離そのもの」と言って良いかも知れません。

 

分離する事自体は人間として正常な事だと思います。

 

他の生物はどうなっているか分かりようもないですが、もしかすると分離する事は人間だけが持つ能力で、分離する事が出来る故に人間なのかも知れません。

 

「人間とは分離だ」と言っても良いのではないでしょうか?

 

 

 

問題なのは「客体側を自分とみなしている事」です。

 

「これは辞めた方が良いんじゃないか?」と思います。

 

自分ではないものを「自分だ!」と言い張っている状態ですから、その自分ではないものが無くなる(死ぬ・壊れる)まで振り回され続ける事になります。

 

これはもう苦しいだけです。

 

それを辞めれば自然と主体側が自分となります。

 

「認識出来てしまうものは全部自分ではない」となれば、何処にも行き場が無くなるので、「そうならざるを得ない」でしょう。

 

 

 

では、認識する前はどうなっているのでしょう。

 

結論を言えば“ひとつ”としか言い様がありません。

 

「認識は“ひとつ”が“ひとつ”を知る為の苦肉の策なのではないか?」と思います。

 

「“ひとつ”に行き着くためには認識による分離が必要だった」という事です。

 

 

 

“ひとつ”は“ひとつ”を知りたかったのではないか?

 

そうなると、「認識客体を自分とみなしたのは意図的だ」と考えられます。

 

もし、初めから認識客体を自分とみなしていなければ、認識主体に気付く事が出来ていなかったと思います。

 

認識客体を自分とみなして強い違和感を覚えさせる事により認識主体に気付かせ、「主体と客体に分離する前は何だったのか?」という疑問を抱かせ、その疑問を通して“ひとつ”に行き着かせる。

 

…そんな意図が有るのかも知れません。