自分が自分に気付いていない | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私は「本当の自分と呼ばれるものは“これ”の事を言っているのだろう」と思っています。

 

しかし、どうやら肝心の“これ”がその事を認識していないのかも知れません。

 

漫画の中の登場人物が作者の存在に気付いているのに、作者自身が自らの存在に気付いていない様な感じでしょうか。

 

「そんなにバカなはずはない」と思いたいですが、「わざとそうして、自分探しゲームをしている」と考えられなくもありません。

 

 

 

“これ”は何時如何なる時も認識主体として在ります。

 

常に認識する側なので、認識される側(認識客体)にはなり得ません。

 

「認識出来るものは全て、本当の自分ではない」と言えます。

 

しかしながら、認識主体は認識客体が無いと認識主体になり得ません。

 

認識する対象が無いと認識のしようが無いからです。

 

 

 

そうなると主体と客体の区別は有って無いようなものですが、そこを考え出すとキリが無くなるので、ここでは便宜的に主客を統合させて考えます。

 

認識する側と認識される側を統合すると、“認識”と呼ぶのが良いでしょう。

 

愛する側と愛される側を統合すれば“愛そのもの”となるので、“認識”も同じ理屈で考えても特別おかしい話ではないと思います。

 

この理屈で言うなら、「本当の自分とは“認識”である」という事になります。

 

“認識そのもの”が本当の自分という事です。

 

 

 

そこで問題になるのが「“認識”とは何か?」です。

 

感じるものではないので、「感じて理解する」という方法は使えません。

 

感じている事は常に客体で、感じて理解しているのが“認識”だからです。

 

こうなれば、“認識”本人に答えを出してもらうしかありません。

 

「“認識”に“認識”を“認識”してもらうしか無い」という事です。

 

客体の私でさえ「そういう何かが在るのでは?」と疑えるのですから、「主体がその事に気付けないはずはない」と思います。

 

 

 

「叶っている」から進展が無いので寄り道しました。

 

“今”の私を適切に表現するなら「何だか分からない」なのです。

 

本当に良く分かりません。

 

一体何なのでしょう。