“今”何を感じて、それは何を言っているのか? | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

あの強制的な感覚をそのまま言語化すると、どうやっても「叶っている」にはならないのですが、“今”感じているもので判断するなら、「ドンピシャかどうかは別にしても、方向性は正しい」と思わずにいられません。

 

相変わらず何が叶えられたか、感じているものは何を言っているのかは分かりませんが、「好ましいものである」という事は確かです。

 

現に私でもそう思えるものを感じているのですから、否定のしようがありません。

 

今回はそれを感じつつ、“今”思っている事や考えている事を述べて行きます。

 

文章化は時として求める答えを炙り出す事があるので、そこも狙いたいと思います。

 

 

 

単純に「働いた方が良いか?働かない方が良いか?」という問いが有ったします。

 

私は感性に従えば「働かない方が良い」で決まりです。

 

理性に従っても「働かない方が良い」になるでしょう。

 

今までは理性的には「働いた方が良い」と判断していたと思いますが、“今”はそういう声が全く有りません。

 

理性でさえ「働かない方が良い」と判断しているのが“今”です。

 

「働かない方が良い」を、私の最終的な結論として採用した方が良いかも知れません。

 

 

 

そうなると、「収入はどうするの?」という疑問が出て来るはずです。

 

ところが、どういう訳か私の中にその疑問が有りません。

 

これは私にとっても不思議な事です。

 

一応起業の体を取っていますが、それを当てにしている様子は全く見受けられず、それ以外の方策が用意されている気配も感じ取れません。

 

“今”感じているものには全く関係が無い事なのか、それ(収入)も含めて「叶っている」という事なのか、今後の進展が待たれるところです。

 

 

 

「気分が良い」と言えば「良い」と言えるでしょう。

 

しかし、それは副産物的なものだと思います。

 

リンゴの香りを嗅いで「ああ、良い香り」と言っている様なものです。

 

私が欲するのは香りではなくてリンゴです。

 

それを“今”の私は持っていて、「はて?これは何なのだろう?」と言っているのです。

 

 

 

“今”感じているものは、思っていたものとは大分違います。

 

思っていた通りなら「これは“○○”だ」と直ぐ分かるでしょうから、それは当然と言えば当然の事です。

 

私は未知のものに触れているのです。

 

しかし、知れば「ああ、これは“○○”だ」と分かるのでしょう。

 

未知でありながら、同時に既知でもある何か。

 

それは一体何でしょうか?

 

この記事中では発見出来ませんでしたが、何かしらのヒントを掴んでいるか、答えにかすっている可能性を期待しつつ、感じているものに意識を向け続けてみましょう。