私は“哲学”である | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

私は多分“哲学者”なのでしょう。

 

「“哲学”それ自体」と言って良いかも知れません。

 

そうなると「私は“哲学”である」という事にもなります。

 

普段やっている事、考えている事、思っている事、感じている事は全て「知る事」に基づいていて、常に自問自答を繰り返すその在り方をこの世に存在する言葉で表現するなら、“哲学者”が最も適切でしょう。

 

 

 

初めて知ったのですが、“哲学”の語源は“愛知”だそうです。

 

「愛を知る」のではなく、「知を愛する」という意味です。

 

私が住んでいるのも愛知県です。

 

洒落にしては出来過ぎています。

 

「やたら愛知県に拘っていたのは愛を知る為だ」と解釈していたら、確かにその通りにはなりましたが、もう1つの意味が込められていた様です。

 

その愛知県の中でも特に惹かれる刈谷にも、何か意味が有ったりするのでしょうか?

 

 

 

「本質的には“労働者”ではない」という事なら、確かに働く事に意味を見出だせるわけがありません。

 

“哲学”だけやっていれば良い。

 

“哲学者”として在れば良い。

 

もしそれが叶うなら、私の人生にも幾らか潤いを感じられるかも知れません。