「働きたくない」のではなく、「働けない」のではないか?
そういう考えが浮かびました。
これは一考の価値が有ります。
単純ではありますが、一度も考えた事が無い可能性だからです。
その働けない理由を突き止めれば、今まで解決出来なかった問題に新たな展望が開ける事でしょう。
働けない自分が居るなら、これを受け入れる事は非常に容易いです。
両手を挙げて歓迎します。
それを否定するものは、私の中に存在していません。
むしろ、そうであるならば、そうである事を認めずにいる事を否定するでしょう。
「働く事自体は無意味」というのは、私の中で全会一致している事です。
それを押し退けて出来もしない事をやろうとは、もはや正気の沙汰ではありません。
しかし、「働けない」では「私は何なのか?」には届きません。
そこに届かせるには、「働けない」と言わせるものを突き止める必要が有ります。
例えば私は争う事を避けますが、それは私が“弱い”からです。
“弱い”という事を受け入れていると、「勝ちたい」と思わなくなり、争う事に何の価値も見出だせなくなります。
そして、それが真の“強さ”である事に気付きます。
「争えない」と「働けない」を同じものとして考えると、争えない理由が己の“弱さ”であるのと同じく、働けない理由も己の“○○”に有ると考えられましょう。
それが“金持ちではない何か”かも知れません。
“金“で働く事を避けようとしていた事は事実であって、“金”を持つ事で得たかったものや、気付かずに済ませたかった自分が、そこに在るのかも知れません。
「働けない」が示した新たな可能性を、“今”は採用したいと思います。