私は社会不適合者で、労働市場価値が無い事を自覚しています。
「何処に行っても勤まらないし、そもそも採用されない」という事を感じていました。
「そうだ」と気付き、認めた後は直ぐに「むしろ、適合しない方が好都合だ」と思いました。
「働くのが大嫌いだったから」です。
「適合しない事に誇りすら覚える」と言っても過言ではありません。
では、「“金持ち”ではない」はどうでしょう。
やっぱり疑問です。
「“金持ち”ではない」という事が分かっても、「じゃあ何なのか?」という疑問が残るからなのだと思います。
「“○○”ではないという形でもイケる」と踏んだのですが、やはり「“○○”である」という形にならないと駄目なのでしょうか。
少なくとも「“金持ち”になろう」とはしなくても良いわけですから、「“金持ち”からは解放された」と思って良いかも知れません。
感じるものは未だ残っています。
これが“金持ち”ではない理由、“金持ち”にならなくて良い理由なのでしょう。
社会不適合者であるのと同じく、それを知れば(認めれば)誇りを覚えるものであるかも知れません。
それはまさに、左脳(理性)では絶対に辿り着けなさそうな答えです。
右脳(感性)は、既にその答えを知っているのでしょう。
さて、“今”の私は何なのでしょうか?
“金持ちではない何か”という事以外、何も分かりませんが、答えに出会う時が楽しみです。
きっと「ああ、これだ」とスッキリして喜んでいる事でしょう。