“問題”が無い未来に意識が飛びそうになったので“今”に戻ります。
「感じているものは“問題”だ」という事で大きく間違いは無いでしょう。
従って、“今”の私には“問題”が在る“今”を受け入る必要が有ると思います。
「“今”無いものは「無い」、“今”有るものは「有る」と受け入れる姿勢こそ、“今に在る”という事なのだろう」と、“今”は思っているからです。
これで「思っている事」と「感じている事」は“今に在る”と言えるはずだ。
…と“今”は考えています。
これで「考えている事」も“今に在る”のではないでしょうか?
私自身が“問題”の源泉、即ち「私は“問題”である」という自分になっていたのは、かなり濃厚な線だと思います。
私は“愛”は「要る」と答えました。
でも、“問題”は「要らない」と答えます。
両方自分の世界に存在する事を受け入れた上で、そういう取捨選択をするのです。
食わず嫌いをせず、両方を味わった結果、そういう結論を出します。
私が“今”すべきは、口に含んだ“問題”を咀嚼し、味わって呑み込む事です。
それが望んだ者の責任、“今”に対する姿勢だと思っています。
「“問題”が要らない」という事は、「“答え”も要らない」という事に他なりません。
もしかすると、私が“答え”を求め続けているから、“問題”も作られ続けているのかも知れません。
ならば、「“問題”を作るのを辞めたら良い」のではなく、「“答え”を求めるのを辞めたら良い」と言った方が正確でしょうか?
確かに求める事はそれ自体が“苦”ですからね。
「求めたら逃げられる」という経験は嫌と言う程しています。
それが正解なのかも知れません。
“逃げている”ってそういう事だったのでしょうか。