“刈谷”が見ているのは少し先の私の姿 | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

“刈谷”からイメージされるのは、「手当たり次第にやれそうな事に手を出しながら、一人で収入を得られる道を模索している私の姿」です。

 

それが“刈谷”が見ている事なのかも知れません。

 

その先まで見えれば有難いのですが、「一人で収入を得られるように模索する」という位置に来ないと、その先はまだ見る事が出来ないのでしょう。

 

 

 

その為にはインターネットとパソコンは必須になります。

 

「何で生計を立てるか?」なんてまだ決まっていないのに、どういうわけかそれは決まっている様です。

 

以前もパソコンを見に行った事が有るのですが、最も高額なもので30万円くらいだった記憶が有ります。

 

私はその値段を「高い」とは感じませんでした。

 

千円でも「高い」と感じる物だって有るのに、30万円をそう感じなかったのは、私に必要だからなのかも知れません。

 

結局買っていませんでしたが、その時は「時期尚早」と判断したと思います。

 

 

 

動画編集、YouTube、ブログ、Note、スピリチュアル…と、収入に結び付く可能性が有って、尚且つ今の私でも手を付けるくらいなら出来そうな事が幾つか有ります。

 

一朝一夕に行かない事は自覚しています。

 

持っている貯蓄だけでは、生活費は到底足りなくなるでしょう。

 

そこはもうバイトやら何やらで繋ごうと考えています。

 

取り敢えず身は刈谷市に置いといて、心は一人で収入を得られる事に置いとけば、お金を得る手段は何でも構いません。

 

 

 

これで良いかは分かりません。

 

やらないと分からない事です。

 

「やったら分かるのか?」と言うと、「上手く行くかどうか」は分かりません。

 

でも、「未来に繋がるかどうか」は分かります。

 

私はよく「意味が無い」という言葉を使うのですが、それは「未来を感じない」という事なのです。

 

それをやっても先が無い。

 

その人と居ても先が無い。

 

どういうわけか、私はそういう判別が出来るのです。

 

 

 

来月一杯で今の仕事を辞め、再来月は未消化の有給で埋める予定です。

 

意識するまでもなくこれからの事で内側が一杯なので、任せていてもそれなりの道筋は整って行くだろうと思っていますが、私も私で意識的に取り組みたいと思います。

 

刈谷市に戻る迄に、今の場所で学び取れるものは出来るだけ学んで行きます。

 

 

 

今も微かに何かを言っています。

 

それは、私自身を大切にする事、尊重する事、重視する事を意味しているものだと思います。

 

「私はそうされて当然の存在だ」という事を言っているのだと思いますが、今の私はその逆を行っている可能性が有ります。

 

“これ”は一人で収入を得られる様になる上でも重要な要素かも知れません。

 

今、私が取り組むべきは“それ”なのでしょう。