“豊かさ”を垣間見る | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

内心では「これで見付からないわけがない」という当然の事実とも確信とも取れるものが在ります。

 

同時に「見付かるかどうかは別にして、内に求めた事自体は正解だった」という感想も在ります。

 

一見するとどっち付かずという印象ですが、外に求めていた時は何処を探しても見付からない事が分かっているような状態でした。

 

そう見ると大幅な前進です。

 

探す前から見付からない前提であるのと、見付かる前提で探すのとでは雲泥の差です。

 

“探す”と“見付かる”の両方の要素で良い方に真逆になりました。

 

 

 

“豊かさ”を垣間見た気がしました。

 

言葉にすると“豊かさ”としか言えないものを感じたのです。

 

その時、お金だけで“豊かさ”は得られない事を自覚しました。

 

無理矢理稼いだお金では豊かにはなりません。

 

私がお金を求める事が出来なかったのはその為だと思います。

 

自らの内で探し求めて見付けた“仕事”で得たお金でないと、お金は“豊かさ”の象徴にはならないのでしょう。

 

お金の本質はその“豊かさ”に在り、その“豊かさ”の本質が“仕事”、あるいは“仕事”が豊かさそのものなのかも知れません。

 

今の職場はどう言い繕っても真逆と言わざるを得ません。

 

今度は悪い方の真逆です。

 

私の内に“仕事”が見付かり、それに就いた時、今の職場に3日と居れる自信がありません。

 

「もし明日にでもその“仕事”がハッキリしたら、その時直ぐにでも退職を申し入れるだろう」と思っています。

 

それくらいの事を思わせるようなものを、その“豊かさ”に見たわけです。

 

 

 

感じるものはまだ在ります。

 

「明日には進展が見えていれば良いな」と思っています。

 

不安はありません。

 

期待が無いからです。

 

「明日には進展が見えていれば良いな」は期待ではないのです。

 

「では何か?」と言うと、私にも良く分かりません。