愛と愛情を間違えていないか? | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「何を愛されたいのか?」については、「存在そのもの」しか思い付かないのですが、別にそれは汚点でも何でもありません。

そこには否定する要素が何もありません。

なのに、ここからどうして「愛されたい」が出て来るのでしょう。

一先ず「愛されたいという欲求は、自身の存在そのものを否定しているから起こる欲求だ」と考えてみる事にしましょう。

「愛されたい」と思っている時点で、そう思っている人はそこに存在しています。

何らかの理由で「私は居てはいけない存在だ」みたいに思ってしまう事はあるでしょう。

それがそもそもの勘違いで、愛情の有無と愛の有無は全く別の問題です。

「存在している」という事実だけあれば、既に「愛されたい」という欲求は満たされているのです。

「愛されたい」は「存在したい」なので、存在している時点で愛されているのです。

即ち、生きている限り「愛が無い」という事は有り得ません。

死んでいても存在を認識出来るなら、やはりそれも「愛が無い」という事は有り得ません。

無い場合が有るのは愛情ですが、それを愛と混同しての「愛されたい」であれば、単なる勘違いと言わざるを得ないと思います。



「愛情が欲しい」という事でしょうか?

愛情を注がれる事が、自らの存在に価値を与えるのでしょうか?

ちょっと私には理解し兼ねます。

愛情の有無と存在価値に因果関係を全く見出だせません。

「愛情を注がれないから愛されていない」というのは、私としては有り得ないのです。

誰に必要とされなくとも、誰に愛情を注がれずとも、「存在している」という事実それ自体に価値があると思います。

これは私が愛情を始めとする感情よりも重視するものを持っているから、そう思うのかも知れません。

「そこに居ていいよ」

これだけで充分な愛ですよ。