泥水は飲めません | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

願望と欲望、同じ『望み』でありながら何故違う二つの言葉に分けられているのでしょうか。

僕の個人的なイメージですが、願望に執着が混じっている状態が欲望であると捉えています。

願望を真水と例えるなら、欲望は執着という泥が混じった泥水です。

喉が乾いていても泥水を飲めばどうなるか簡単に想像が付くでしょう。

非常に身体によろしく無く、身体の衰弱に伴って精神も弱るのは目に見えています。

喉が乾いた時は素直に真水を飲めばいいのに、エゴはわざわざ自分で泥を混ぜて飲もうとします。

願望は願望として、純粋な形で貴方の意識の中に在ります。

その願望に特定の条件や拘りをくっ付け、その形に執着しようとする事は真水に泥を混ぜる行為に他なりません。

泥水すすって欲望を実現したとしても、ボロボロの健康状態では折角叶った望みを楽しむ余裕は無いんじゃないでしょうか。

何時願望が実現するか、上の例えで言うなら何時真水を飲む事になるかは知る事は出来ません。

少なくとも、今この瞬間に真水を飲んでないとするなら、今は飲まなくて良いタイミングなのだと思います。

しかし、真水を飲むべき時が来たらごく自然な形で気付かぬ間に何時の間にか飲んでいる事でしょう。

願望も実現するべき時が来たらちゃんと実現します。

エゴに出来る事と言えば水に泥を混ぜたりしないで、実現するまで黙って穏やかに過ごす事だけです。