執着してこそ願望であって、執着していない事が実現しても有り難くもなければ嬉しくもない。
…とエゴは言うかも知れません。
執着している時のあの焦燥感から一気に解放された時の、「やったー!」という刺激的な喜びこそがエゴにとっては至福であり、これこそが願望実現だとも言うかも知れません。
しかし、その刺激的な至福はほんの僅かな間の話で、今度は実現させた何かを失う不安に苛まれるか、折角実現させたものに飽きて次の「やったー!」を求め出すかでしょう。
感謝や満足など何処にもなく、執着は次の執着と絶え間ない焦燥感を生み出すだけに留まります。
願望の実現=刺激的な喜びを伴うもの…と解釈していては、言い方は悪いですがこれでは単なる薬物中物と変わりありません。
先日も書きましたが、願望は常に真水を飲むが如く実現しているものです。
真水は味も刺激もないので、意識していないと飲んだ事にも気付きません。
貴方は願望を実現して喜んだ事は思い出せるでしょうが、今までにどれだけ水を飲んだか思い出せるでしょうか(もちろん、僕は今日どれだけ飲んだかすら思い出せません)。
それくらい当たり前のように願望は実現され、その実現がされ続けているからこそ、今こうして此処で生きていられます。
エゴの執着さえ脱却出来てしまえば、後はどうにでもなります。
エゴの欲望という泥水ではなく、純粋な願望と言うのが在って、それが常に実現していた事に気付けば、今存在している事自体に自然に感謝出来るでしょう。
当たり前に起きていた、自身では小さいと思っていた願望とも呼べない願望が実現されている事に感謝する事、これこそが真水を飲む行為にあたります。
反対に当たり前ではなく、自身では大きくて今実現していない何かに意識を向け、執着し続ける事が泥水を飲む行為にあたります。
一杯の泥水の為に、今まで飲んだ全ての真水を忘れてしまうのがエゴの執着です。
しかし一度でも真水に感謝が湧いた時、つまり一度でも今まで生きてこられた事に感謝が湧いた時、もう二度と泥水には戻れません。
「執着しない」と言うよりは、「執着出来なくなる」のです。
エゴにとっては絶望ですが、同時に希望でもあります。
そして、その希望は今この瞬間も常に実現しているのです。