情緒不安定パーソナリティ障害、解離性障害な私 -4ページ目

情緒不安定パーソナリティ障害、解離性障害な私

愛着障害、高次脳機能障害、情緒不安定パーソナリティ障害、解離性障害、左手指の麻痺

生きることは簡単ではありませんが、それでも生きていきたい。
そんな前向きな日々を過ごしていきたい。


救急閉鎖病棟入院から4日が経ちました。
調子には激しい波があり、突然の希死念慮に襲われたかと思えば、部屋に戻った途端そんな自分に呆れていたり。
たった4日を総合し平均化すると調子は普通といっていいと思われるけれど、夜は悪夢を見るし定期的にライトを窓から照らされ外はドアの激しい開閉の音。五感が敏感な私には苦痛で、流石に4日では慣れないと言ったところだろうか。
そして今日はまさに体に不調を来たして乳汁分泌、乳頭は爛れ、耳も耳管開放症に逆戻りしている。
アトピーの私には室内の空調に常に晒される環境下は拷問に近い。肌は砂漠の乾いた土のようにひび割れ着用している衣服に引っ掛かりいちいち痒みを与える。
掻きむしりたい衝動を抑え特に痒い背中には保湿をしつつ過ごす。不安なのは処方されているヒルドイドが底をついたらということ。

担当医師曰く1月中には退院の方向で、との事だが足りるだろうか、薬も私の精神力も、

毎日代わり映えのない日々の繰り返しは発狂しそうな程につまらなく、テレビを見るのにも1000円必要なこの病院では見ることに気が引けて無音な部屋で過ごす。
もちろん大部屋にはテレビが設置されているが、報道番組、笑点など若い層に向けた番組はチャンネル戦争により回ってこない。

しかもひとたび大部屋に腰かければ新人な私は奇異な眼で見られる。居たたまらない気持ちが溢れて時折辺りを警戒しないと攻撃されるのではないかととんだ被害妄想まで抱いてしまう。

前回入院したたった3週間も、頭がおかしくなってしまい、子供がえりし夜は看護師にもバレない冷たい空間に身体をはさめ身を隠して爛れた背中を丸めて泣いたりもした。
結局3ヶ月を予定していた入院は3週間で終え予後は悪かった。

今回はしくしく泣くことはないだろうけど、前回の退院後の生活も考え耐え、頑張り、治療しなくてはならない。
この漠然と持て余した時間と戦い、症状と向き合いながら。

今日は姪っ子と姉と母と私で買い物に行きました。
楽しかったのですが、やはり姉や母の私の発言に対してそれ以上話を広げないようにシャットアウトしたり、適当に流されたりする私が異端である事を示す雰囲気はちょこちょこありました。
救いは、私に甘えるようになった姪っ子でした。
どんなに異端者扱い、腫れ物に触る感じにされても吹っ飛ぶ位でした。
ところが途中、私の発作が現れました。
Twitterにつぶやく程、発作は強くなり、決め手は座る私の隣に置かれた荷物でした。その時、私は自分が荷物であることを確信しました。
頭の中に谺します。
お前は荷物だ、お前は邪魔だ、お前は異常者だ。異端者だ。
私の意識は外に引っ張られました。
身体はそこにあるのに、声は出せず、周りの声にも反応出来ません。
足は勝手に動いてるのに視界が悪いから違う方向を歩きます。
違うのは、私と姉たちの方向です。
暫くして私は家族が居ないことに気づきました。
普段なら家族と離れることは不安でいつ見捨てられるか分からないので常に近くにいるんですが、その時の私は歩いてました。
すると、姉に叱られました。「何を不機嫌になってるの」
母にも叱られました。「なんなのさっきから」
私は言葉が上手く出ませんでした。
矢継ぎ早に「休めば」と言われなんとか声を振り絞りました。
「身体はなんとも、でも体調が悪い」
やはり休めと言われたので少しでも体をコントロールするため自分の頬を大きな音を立てながら何度も叩きつけました。
人の目など気になりませんでした。自分優先です。
気付くと母は私よりいちばん遠いとこに居ました。誰も私に興味など向けません。
笑顔で楽しさを装わなければ私に価値は無いのです。
私は頬を抓ることにしました。身体もつねりました。
血を出せば落ち着くと思いましたが出ませんでした。

なので1番落ち着く2階から下を見下げる事にしました。
行動さえ起こせばぱっと落ちれそうだからです。

すると姉が「あんたおかしいよ」と言いました。
私は泣きました。そして車に戻れと命じられチャンスだと思い4階から飛び降りようと思いました。

雨の降る極寒の中、車に鍵を引っ掛けフェンスをよじ登ろうとしますがムートンブーツが邪魔して登れないのでブーツを脱いでよじ登りました。
少し前に体重を掛け、階下を見下ろしました。
人気の少ないコンクリートが佇んでいました。
フェンスは柔軟で、このまま前にどんどんと体重を掛ければ落ちてしまう感じでした。

姉たちが来るまでの30分、格闘し、諦めました。
飛び降りることが出来なかったのです。

愕然と、絶望しフェンスの下を見下ろしていたら姉たちに見つかりました
「外で待ってたの?寒かったでしょ〜」「中に居なって言ったじゃん」
母の声は特に偽善に聞こえました。
私はなんでもないことを装うため急いで車の中に入りました。すると直ぐにロックをされ閉じ込められました。

それからは薬を酒でキメて首吊って死のうと考えました。
するとTwitterでDMが来ました。だめ、いかないで。と
死んじゃうの嫌だよと。
私は我に返りました。途端に自殺衝動が無くなりました。
感謝です。
その後、姉たちが戻るとまず姪っ子が私を探しました。
私の雰囲気や顔つきを察知したのか、私の方に来て私を抱き締めました。
ねむそうに指を吸いながらも、私が声を押し殺して泣いてるのを分かったのか、私が落ち着くまで私の手を握り締めていました。しばらくすると、姪っ子は眠りにつきました。

私は、友達と、姪っ子にありがとうと思いました。

2016年にとある心理系の講義で知り合った友人が、自殺しました。
まだだったの21歳でした。

彼女の家庭環境は複雑で、父は血が繋がっておらず、精神的DVをする人で、その父親が連れてきた子供(弟にあたるみたいですが)も最低で、彼女の心の問題を理解せず卑下していたようです。たった1人の頼れる母とも上手くいかず、警察と救急を呼ばれることもあったそうです。

彼女は入退院を繰り返し、安定し始めた2018年、漸く遊ぶことが叶いました。LINEではずっとやり取りをしていましたが、本当に念願の事でした。

彼女の声は、不思議なもので、美しい音色を奏でるフルートのような声色でした。その場を一瞬で和ませるような、そんな声と雰囲気でした。

彼女は複雑な家庭環境で育ったにも関わらず、その愚痴は一切漏らさず、いつも聞き役に回っていました。
弱い所を人に見せることが出来ない優しい子でした。

気も回るし、可愛いし、その場にいるだけで存在が成立するような素敵な人格の持ち主でした。

そんな彼女と去年連絡が途絶えてから1年。LINEをしても既読がつかない、手紙にも返信が無い、そしてLINEを確認すると携帯が解約されてることに気付きました。これはもしかして、「最悪」な想定しか出来ませんでした。混乱した頭でもう一度手紙を送ると、彼女のお母さんから返信が来ました。


彼女は、私と遊んで別れた直後に自殺をしていました。


私は、やり切れない気持ちになりました。もっとなにか出来たろう。もっと話を聞いてあげられたろう、もっともっと、大好きだと伝えればよかった。ちゃんと声で。
心が引き裂かれる思いでした。多分この事実は一生、私の心を引き裂いたままにするでしょう。

でも、それ以上に引き裂かれズタボロで苦しみ孤独を抱え辛かったのは自死を選んだ本人に違いません。

どうして、私は直前まで居たくせに表情、声色ひとつから気付いてあげられなかったのだろう。

LINEでは「一緒に生きようね」が彼女との最期のやり取りになりました。

約束は、破らない子だったのに。

どんなに辛かったろう、苦しかったろう。

息絶えるとき、孤独だったろう。

考えると、きつく苦しいです。


私は、彼女のお母さんに彼女の分まで幸せになって下さいと、言われました。

そうなのかもしれません。

でも、生き続けることは、失い続けることでもあると考えると、生きるのが耐え難いです。