2023年1月24日参拝。
足立区千住地区の神社の続きです
千住四丁目氷川神社
JR常磐線、東京メトロ、東武スカイツリーライン、つくばエクスプレス・北千住駅西口より徒歩5分。
社号碑には「氷川神社」とだけ。
鳥居。
社殿のある玉垣に囲まれた部分だけ、中島のように高くなっているのが見えます。
鳥居の神額の「氷川神社」の「川」の文字が独特。本当に川が流れているようです
参道右手の手水舎。
狛犬の口から吐水するタイプですが、水は出ませんでした
足立区千住に鎮座。
元禄4年(1691年)、長円寺境内に創建されました。
明治3年、同寺と氏子が社地を定める申し入れをし、明治5年、千住宿北組(4丁目)の村社に定められました。
拝殿
屋根の下、前方と左右に庇が大きく広がっているのが特徴的です
「氷川社」と書かれた扁額。
【御祭神】
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
【相殿神】 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
品陀別命(ほんだわけのみこと)
現在も、南に新義真言宗・月松山長円寺が隣接しています。
境内の魚籃観音堂に安置されている魚籃観音(馬郎婦観音)は、元々は千住四丁目氷川神社の御神体(本地仏)でしたが、神仏分離により長円寺に移されています。
「魚籃観音」(馬郎婦観音)とは…
三十三観音に数えられる観音菩薩の1つで、人に悪さをする悪鬼や、人を食う足の速い羅刹(らせつ)、祟りを成すという毒竜の害を取り除く菩薩とされています。
その姿は、一面二臂(ひとつの顔と二本の腕)の乙女姿の立像。
魚籃(魚を入れる籠)を持つものや、大きな魚の上に立つものなどがあります。
天水桶。
明治42年(1909年)には「元宿八幡神社」を合祀しています。
拝殿を右から
こちら側からも玉垣内に上れます。
ご本殿の覆屋。
神輿庫。
境内社は1社。社殿の左手にあります。
境内社ですが、
一の鳥居・二の鳥居・石段があります。
三社の合祀殿です。
社殿前に、石燈籠と小さな狛犬
中央・稲荷神社🐺
右・高正天満宮
左・猿田彦大神
水盤の遺構。
「丸に宝珠」紋なので、稲荷神社のものですね。
高正天満宮縁起碑。
元治元年(1864年)の建立。
【高正天満宮について】
千住4丁目の名主・高梨信平は、地域の子供たちに読み書きなどを教えていましたが、老齢となり、屋敷内に住むことになった正木昌房に子弟教育を託し、代々信奉していた菅原道真の像を譲ります。
正木氏はそれ以来、この像を家神として祀り、子弟教育を家業とするようになったとのこと。
昌房の孫・正木建はこの菅原道真像を個人で祀るより、氏神社内で祀ることを思い立ち、高梨氏と正木氏とに関わるこの神を、それぞれの一字をとって「高正(こうしょう)天満宮」と号することにしたのです。
この碑は、正木建の撰文によるものであり、「高正天満宮」の由来と寺子屋「群雀堂」開塾に至る経緯が窺える貴重な資料です。足立区登録有形文化財。
※足立区教育委員会掲示より。
御神木のクスノキと三菅塚。
「三管」とは、雅楽の龍笛・篳篥・笙のことで、使わなくなった物を塚に納めます。
京都には多く見られるようですが、関東では珍しいもの。
写真の右奥に見えるのが、
正木櫟蔭事績碑。
嘉永5年(1852年)建立。
宝暦元年(1751年)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂(ぐんじゃくどう)」の2代目塾主・正木大助=正木櫟蔭(れきいん)の生涯についての碑です。
【正木櫟蔭について】
父・昌房が千住に移住し、地域の子供たちの教育を行うようになりましたが、その末子として宝暦12年(1762年)元旦に生まれた大助は、幼い頃から学問に秀で、なんと12歳の若さで塾主を継ぎます。
母や姉の死や貧苦を乗り越えてますます勉学に力を入れ、来塾する者が毎日100人ほどいたことや、66歳で剃髪した後も多くの人々の尊敬を受け、清白とした生活を送っていた様子などが述べられています。
この事績碑も、塾主3代目である息子・正木建の撰文によるもので、寺子屋教育の様子を物語る貴重な資料です。
こちらも足立区登録有形文化財。
※足立区教育委員会掲示より。
塞大神(さえのおおかみ)。
村や部落の境にあって、他から侵入する疫病や悪霊などの邪悪なものを防ぐ神。
砦の役割を果すところからこの名があります。
境の神の1つで、道の神・道祖神・くなどの神などとも呼ばれます。
「塞大神」の下には、「三猿」と書かれているように見えます。
庚申塔には通常三猿が彫られ、道祖神として祀られることもあるため、習合したのでしょう。
そろそろ境内をあとにしようとした時…
黒猫ちゃんが
またまた神社で猫に遭遇しました。
しかも、私がいちばん好きな黒猫
なぜか、帰ろうとしている時に見ることが多いです
今年は年始から神社で猫に会いまくり
「千住四丁目氷川神社」へは、北千住駅西口から旧日光街道を通って行きます。
千住宿の史跡を少しご紹介します。
左手に、
千住宿本陣跡。
宿場には、日光社参や大名の参勤交代などで宿泊や休憩する施設として、本陣が設けられました。
本陣の利用者は勅使・院使・宮・門跡(もんぜき)・公家・大名・旗本などで、一般の利用は出来ませんでした。
千住宿の本陣は基本的に1か所で、千住三丁目の秋葉市郎兵衛方が世襲によって長期間に渡って本陣を勤めました。
現在は路地入り口に、この石柱があるのみです。
「LUSH-COFFEE ROASTER and LABORATORY / 東ティモールコーヒーラボ」というカフェの前にあります
※あだち観光ネットより。
ここからさらに400mくらい進むと、左手に、千住絵馬屋・吉田家。
吉田家は、江戸中期より代々、絵馬をはじめ地口行灯(じぐちあんどん)に貼る絵紙や凧などを描いてきた際物問屋(きわものどんや)※です。
手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなり、稀少な存在となっています。
「際物問屋」という言葉は初めて聞きましたが、「際物」=「時期のもの」。
必要な季節の間際になって売り出される、3月の雛人形、5月の鯉幟など一時限りの品物を言うそうです。
吉田家の絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で絵を描き、屋根を付けた小絵馬で、「千住絵馬」と呼ばれます。
※画像はあだち観光ネットより。
絵柄は、病気平癒・商売繁盛・学業成就など、祈願する神仏によって構図が決まっていて、40数種類あるそうです。
吉田絵馬屋は現在8代目で、千住絵馬づくりは足立区登録無形民俗文化財です。
代表的な絵馬も、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっています。
「地口(じぐち)」とは、江戸時代に流行した語呂合わせやダジャレの一種で、ことわざや芝居の台詞・格言等を似た音に置き換えたもの。
地口絵紙は、直方体に組んだ枠に貼り付けて「地口行灯」に仕上げられ、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていましたが、現在は9月に千住の各神社で開催される秋祭りの際に参道などに飾られ、千住の街を灯しています。
※足立区教育委員会掲示より。
※2枚の画像はネットより拝借。
その向かい側、こちらも足立区登録有形民俗文化財の横山家住宅。
江戸時代後期の建造で、大きくてどっしりとした百数十年の歴史を語る住居。
宿場町の名残として、「伝馬屋敷」の面影を今に伝えています。
「伝馬」とは、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には「伝馬屋敷」が与えられ、年貢なども免除されたのです。
横山家は江戸時代から続く富裕な商家で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋(じすきかみどんや)。伝馬を負担していました。
横山家住宅は、戸口が街道から一段下がっていて、上にいる客を下から迎える形となっていますが、これは、お客様をお迎えする心がけの表れとのことです。
※足立区教育委員会掲示より。
さらに100mくらい進むと、右手に、
東へ 旧水戸佐倉道
北へ 旧日光道中
とあります。
ここを右折し、旧水戸街道を東へ向かうと「千住四丁目氷川神社」に到着するのです
「千住四丁目氷川神社」は、すぐそこが荒川の土手で、視界が開けていて、
森に覆われたしっとりとした氷川神社の雰囲気とはまた違います。
埼玉にも、荒川の土手のすぐそばで、社殿の裏手に全然木がなかったりする氷川神社がありますが、それはそれでとても氷川神社っぽくて好きなのです
旧日光街道は、とても楽しい道でした
9月の秋祭りの時期に「地口行灯」が灯された通りを歩いてみたいです
最後までお読みいただき、ありがとうございました