【足立区】大川町氷川神社 | 鳥居の向こう側

鳥居の向こう側

埼玉県・東京都・千葉県・神奈川県の神社を中心に巡り、ブログを書いています♪

2023年1月24日参拝。


この日巡った、足立区千住地区最後の神社ですおねがい



大川町氷川神社神社


電車JR常磐線、東京メトロ、東武スカイツリーライン、つくばエクスプレス・北千住駅西口より徒歩12分。


境内入口の社号碑

参道をだいぶ奥へ進んでから鳥居があります。

一の鳥居。木製の両部鳥居です。


右手に手水舎アセアセアセアセ

こちらも、前回の「千住四丁目氷川神社」と同じく、社殿のある玉垣に囲まれた部分が、中島のように高くなっています。
もしかしたら、洪水対策なのかも知れません波キョロキョロ



足立区千住大川町
千住地区の北部、荒川波の南岸に鎮座する、千住5丁目と千住大川町の鎮守です。

旧別当は、真言宗豊山派の寺院・西林山長福寺安養院。
元は千住5丁目の川田耕地に鎮座していました。
安養院が災害に遭ったため古記録を焼失炎していますが、伝承によれば、この付近の開墾が始まったのは宝治年間(1247~1249年)のことと伝わっていて、
永仁2年(1294年)、千住5丁目川田耕地に、土地の鎮護として素盞鳴命を勧請し、祠を建て奉斎したのが始まりとされています。
千住宿が成立すると5丁目の鎮守となり、「鎮守氷川神社」と称したとのことです。


二の鳥居。こちらは石の明神鳥居


拝殿キラキラキラキラキラキラ


神額


【御祭神】
素盞鳴命(すさのおのみこと)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)


賽銭箱は扉の内側でした。


奉納額


大正2年(1913年)から始まった荒川放水路の開削工事のため、大正4年(1915年)当地に遷座しました。
現在の社殿は昭和42年に再建されたものです。


社殿を右側からカメラ気づき
向かって左から、拝殿・幣殿・ご本殿と並びます。


ご本殿乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ


??スロープの上に何かいますねキョロキョロ



社殿の左手(南側)に、

千住川田浅間神社富士塚富士山

文政7年(1824年)築造
都内に現存する富士塚としては9番目に古く、足立区の有形民俗文化財に登録されています。

高さは3m
富士山の溶岩を積み上げて築造されています。


元は、町の西北(元宿)の川田耕地にあり、同じ境内に氷川社・稲荷社・浅間社が鎮座していました。
明治44年の荒川放水路開削工事開始に伴い、大正5年、現在地よりやや西側の土地に移築されました。
その後、東京都の水道幹線工事に伴い、昭和43年、現在地に再度移築復元されました。


登山口の鳥居

山頂まではあっという間です照れ


小御嶽石尊大権現

木花開耶姫の姉・磐長姫を祀っています。

合目石五合目~七合目



十合目もありました。


山頂の奥宮

【御祭神】木花開耶姫命


小さな富士塚富士山ですが石碑が多く、最古の碑は文政7年(1824年)のもので、「富士山三十三度大願成就」とあります。

講社は、高田(早稲田)の「身禄同行」の枝講で、講名を「丸藤千住十三夜同行」といいます。

【丸藤講について】
食行身祿の直弟子・高田藤四郎が、師の死後3年目にあたる元文元年(1736年)に興した「江戸身祿同行」=後の「丸藤講(まるとうこう)」。
造園師だった藤四郎が、師の33回忌の明和2年(1765年)に発願した富士塚築造が、安永8年(1779年)に高田で成就したのを機に隆盛を迎えます。

「丸藤講」のシンボルマーク


藤四郎の築いた富士塚第1号の「高田富士富士山は、早稲田大学の敷地拡張に伴い、残念ながら昭和40年に破壊され、西早稲田の「水稲荷神社」境内に再築されています。=富塚(とつか)富士。 

「丸藤講」は、埼玉県志木市宗岡中央区鉄砲洲足立区千住に富士塚を築造しています。

※志木市の文化財・第22集「調査報告書 田子山富士(上)」より。


経ヶ岳題目碑

田子山富士富士山にあるのと書体が全く同じです。


現在、「丸藤千住十三夜同行」の講員は60名
講中は、4町会(千住5丁目、大川町東、大川町西、大川町南)に及びます。
かつては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の、農民中心の講社でした。

毎年7月1日の富士塚山開き当日には、講員が複数で午前中「七富士拝み」富士山お願いに出発します。
14時過ぎには、早稲田より「丸藤宮元講」が例年通り「七富士拝み」に来ることが習わしとなっています。

講員の高齢化が進む中、「大川町氷川神社」での富士塚開山式は、伝統的な郷土の行事として熱心な人々に支えられ、現在まで伝承されています。

※NPO法人千住文化普及会HPより。

「七富士拝み」の「七富士富士山とは、実際にはどこを指すのか、調べたけれどわかりませんでした。
「江戸七富士」のことではないと思います。
14時過ぎに早稲田から拝みに来る、ということなので、千住地区だけで7つの富士塚を巡るということなのでしょう。
千住神社にも「千住宮元富士」がありますし。
「七富士拝み」の7つの富士塚について、ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください🙇


富士塚登山道に、社殿のほうを向いている後ろ姿は…??


やっぱり!!
またこの神社にも猫ちゃんです猫


小さな富士塚なので、人間よりも猫のほうがサイズ感がしっくり来ます爆笑


参道途中の左手に、
旧・千住新橋の標柱

初代・千住新橋は、明治44年からの荒川放水路の大改修計画の一環として、大正9年~13年までの長い歳月と、119万円を費して完成しました。
長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋でした。
その後、昭和32年に幅17mに拡幅され、東北地方への玄関口として機能を果たして来ましたが、堤防の嵩上げ、橋の著しい老朽化、 交通量の増大などで架け替えをすることになったのです。

昭和51年の架け替えにあたり、長年親しんできた旧・千住新橋の標柱が、大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て、記念のためこの地へ移されました。


拝殿の手前右手に、
紙すき碑

天保14年(1843年)、幕府から地すき紙(再生紙)の生産を命じられ、献上した際の喜びを歌った記念碑で、足立区では、江戸時代から紙すき業が盛んだったことを物語る貴重な史料。
足立区登録有形文化財です。

歌は
すきかえし せさするわさは 田をつくる
ひなの賎らに あにしかめやも
と刻まれ、紙すきが稲作🌾にも劣らない仕事であるという自讃の歌です。

荒川放水路開削のため、大正6年に移転し再建されました。

※足立区教育委員会掲示より。


拝殿の脇に、破損した石像物が並べられていました。



参道の右手に神輿庫が並んでいます。

神輿庫の屋根と庇の間に、左甚五郎作の「座り猫」猫

ではなくて、さっき富士塚にいた猫ちゃんです。置物のよう爆笑
神社を出ようとする時、やっぱりお見送りしてくれるのです。


通常は無人社なので、御朱印はいただけません。
「千寿七福神めぐり」の布袋尊が祀られているため、お正月の「千寿七福神めぐり」の開催期間中(1月1日~7日)のみ、社号の御朱印と、千寿七福神めぐり・布袋尊の御朱印の2種類が、臨時の御朱印所で拝受出来るとのことです。


境内に富士塚富士山があると、俄然テンションが上がってしまいます⤴️
というより、ライバル目線になって、どうしても田子山富士と比較しながら見てしまうのですニヤリ

この日は、3社中2社で猫に遭遇しました猫
一緒に巡った三諸さんは、お1人で神社を巡られている時に猫に会うことは滅多にないそう。
でも、私と一緒の時はよく猫に会う、とおっしゃっていました。

千住地区にお詳しい三諸さんに案内していただき、素晴らしい神社巡りが出来ました。
三諸さん、ありがとうございました照れ乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ


最後までお読みいただき、ありがとうございました爆笑ルンルンルンルンルンルン