【京都府・京都市】賀茂別雷神社(上賀茂神社) | 鳥居の向こう側

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埼玉県・東京都・千葉県・神奈川県の神社を中心に巡り、ブログを書いています♪

2021年11月26日参拝。



賀茂別雷神社(上賀茂神社)神社


この親子なかなかいなくなってくれず…ぼけー


一の鳥居の手前に宮前広場を整備中で、
新鳥居が出来ていました。

電車JR京都駅より
バス市バス4系統「上賀茂神社前(御薗口町)」下車すぐ。 
9系統 「上賀茂御園橋」下車、徒歩3分。


一の鳥居


通称 「上賀茂神社」 「上社」の名で親しまれています。

ご本殿の背後の北北西およそ2kmに、標高301.5mの神山(こうやま)があり、 神代の昔、山頂にある最も大きな岩(磐座)に、御祭神である賀茂別雷大神が降臨したと伝えられます。


※画像は公式HPより。
 
約1,400年前の第40代・天武天皇7年(678年)に、山背国(山城国)により「賀茂神宮」が造営され、 現在の社殿の基が築かれました。

境内は、東に流れる御物忌川と西に流れる御手洗川が合流する三角形の斜面地に広がり、神山を遥拝する形で本殿が建てられています。

奈良時代以前より朝廷の崇敬は特に篤く、国家の重大事には必ず奉幣祈願がありました。 
『延喜式神名帳』の名神大社
二十二社(上七社)の一社でもあります。

延暦13年(794年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都以降は、王城鎮護の神社として格別に崇められ、「山城国一之宮」として歴代の天皇が行幸・奉幣祈願しました。


参道右手に、
外幣殿(馬場殿)

天皇・上皇の行幸や摂関家の参詣の際に、衣服を着替えるために使われたり、葵祭などの神事にも使われる建物です。


二の鳥居手前に、
神馬舎馬

日曜祝日と祭典のある日だけ出社しているとのこと。


二の鳥居


鳥居の正面から少し左にずれ、
細殿

こちらも、天皇・上皇・斎王の参詣の際に、装束を着替えるなどの準備を行ったところです。


立砂

「神山」を模して作られたもので、頂に3本(左)と2本(右)の松の葉が立てられ、陽と陰の一対になっています。
神様を迎える依代ですキラキラキラキラキラキラ



細殿では結婚式が行われている最中でした👰



手水舎アセアセアセアセ

水盤🍊の実で埋まっていました。



細殿の右手に、
土屋

神主や社司の装束を整えるところとして使用されていました。
現在は祓所として使用されています。



境内の東側に「御物忌川」西側に「御手洗川」が流れていて、2つの川に挟まれた場所が特に神聖な神域となります。
細殿の後方で合流し、「ならの小川」となります波


橋殿(舞殿)

古来より勅使御拝の殿舎でした。

「葵祭」の日、勅使は、祓いの水である「ならの小川」の上に設けられた「橋殿」で、天皇からの祈りの詞を伝えます。
そして、それを聞き入れたことを神様に代わって伝える「返祝詞」が、「岩上」で上げられるのです。
※「岩上」については後述します。


玉橋

注連縄が張られていて、通常参拝者は渡ることはできません。


隣りの片岡橋を渡ります。

屋根の付いた橋です。


御物忌川



玉橋の正面に、
楼門


国宝2棟、 重要文化財41棟を含む23万坪の広大な敷地は、 平安時代より変わらぬ佇まいを残していて、全てユネスコ世界文化遺産に登録されています。


中門(拝殿)

【御祭神】
賀茂別雷大神


中門の先の神域は、通常は入ることは出来ませんが、「特別参拝」として初穂料500円を納め、国宝のご本殿・権殿を神職さんが案内してくださいます。 

夫が「せっかく来たんだから行って来ていいよ。」と言ってくれたので、参加して来ました爆笑乙女のトキメキ

中門左手の「直会殿」で、しばらく待つように言われました。最初私1人だけでしたが、5~6人集まるまで待ちました。


社殿の屋根檜皮古材が含まれているという「浄掛」を首から掛け、お祓いを受けますキラキラキラキラキラキラ


お祓いの後、御祭神誕生の「賀茂神話」 の説明を受けます。

『山城国風土記』逸文によると、
神代の昔に天上で雷鳴雷が轟き、1本の丹塗矢が降って来ました🏹



賀茂一族の姫・賀茂玉依比売命が、石川の瀬見の小川(現在の賀茂川上流)で身を清めていると、 川上よりその丹塗矢が流れて来ました。



不思議に思い持ち帰り、丁重に床に祀って眠りに就くと、 矢の不思議な力によって懐妊、 立派な御子を産みました赤ちゃん



御子が元服を迎え、 祖父・賀茂建角身命が八尋殿を造り、多くの神々を招き祝宴を催します。
その席で御子に、
「父と思う神に盃をすすましめよ。」
と言い盃を渡したところ、御子神は、 
「我が父は天津神なり。」 
と言って雷鳴雷とともに天へ昇りました。

残された賀茂玉依比売命の夢枕に御子が現れます。
御神託に従って奥山の賢木を取り阿礼に立て、種々の緑色を飾り、走馬を行い、 葵楓の蔓を装って祭を行ったところ、 天より神として神山に降臨したと伝わっています。


この御子神が、御祭神「賀茂別雷大神」 で、 この祭りが「賀茂別雷神社」の起源です。


「内庭」に入ると、国宝のご本殿と権殿が東西に並んでいます。 
東(右)がご本殿、西(左)が権殿。 
式年遷宮の際には、この権殿が仮のご本殿となります。

※写真撮影は禁止ですので、画像は公式HPより。


手前の赤い瑞垣の社殿は、
末社・杉尾神社
【御祭神】杉尾神
林業の神様です。


幣殿の反対側に、対になるように鎮座しているのが、
末社・土師尾神社
【御祭神】賀茂玉依比古命
賀茂氏の中でも土器の製作に携わった
「西泥土部」という氏族が祖神を祀った神社。
祭祀に用いる神具としての土器も製作しました。


ご本殿の右奥に鎮座しているのが、
 摂社・若宮神社
【御祭神】若宮神


授与所の裏にあるのが、
高倉殿
画像は公式HPより。

神社に伝わる御神宝や孝明天皇行幸絵馬などを常時展示。
特別参拝に参加しないと拝観出来ません。


【賀茂祭について】
「賀茂別雷神社」と「賀茂御祖神社」の両社が執り行う祭で、毎年5月15日に行われます。
起源は欽明天皇の御代(567年)。
風水害が続き、農作物も実らなくなったため、原因を占わせたところ、
「賀茂大神に丁寧なお祀りをしていないためだ!」
とのお告げがありました。
そこで賀茂社に使いを送り丁重にお祀りをしたところ、風雨は治まり五穀豊穣・天下太平となったとのこと。
以降、天皇陛下の勅使が今も参向する、年間の祭典で最も重要な祭儀(例祭)となりました。

社殿に葵を飾り、祭儀に関わる人すべてが二葉葵を桂の小枝に挿して飾ることから、「葵祭」の名で親しまれています。

平安時代、 平城天皇の大同2年 (807年) には勅祭と定められ、
嵯峨天皇の弘仁元年(810年) より約400年に渡り、賀茂の神に御杖代として未婚の皇女・斎院(斎王)が奉仕しました。
これは、伊勢の神宮の斎宮にならったものです。

弘仁10年 (819年) には賀茂祭を「中祀」に準じ斎行せよとの勅が下されます。
「中祀」は、伊勢の神宮と賀茂社の他には見られませんでした。 

※画像は公式HPより。

応仁の乱以降、江戸時代から明治時代にかけて廃絶・再興・中絶を繰り返し、 奉幣使のみの参向や、社頭の儀の斎行のみとなったりしましたが、
昭和28年に行列が復活し、昭和31年に「斎王代」を中心とする女人列も復興され、 現在に至ります。

※画像は公式HPより。


【御阿礼 (みあれ)神事】 
「葵祭」の前儀の一つで、5月12日の深夜に行われる御神霊をお迎えする神事です。 
「葵祭」の神事の中で最も古く、最も厳粛な神事で、 秘儀とされ、 完全非公開で一般の参拝は許されていません。

土地の豪族である賀茂氏は、古くからこの「御阿礼神事」を行っていました。

神山とご本殿との間にある丸山(御生山)の一角に、仮の神籬となる「阿礼所」が作られ、榊に葵をかざした宮司以下が神霊を迎えます。
榊に遷された神霊は、 棚尾社と遥拝所へ移され祀られます。


中門(拝殿)の右脇に鎮座するのが、その
末社・棚尾神社

【御祭神】櫛石窓神・豊石窓神
門を守る神様です。

この社殿、写真を撮り忘れたことを後から思い出し、慌てて撮りに戻りましたカメラアセアセ


御物忌川沿いのいちばん奥に、
摂社・新宮神社

【御祭神】高龗神

「貴布祢神社」または「貴布祢新宮」とも呼ばれています。

「貴船神社」の記事にも書いたように、
賀茂川の上流に鎮座する「貴船神社」は、平安時代以降から江戸時代までは「賀茂別雷神社」の摂社とされてきました。
ですが、貴船川の洪水や冬季の猛吹雪のため貴船詣りが不可能となったため、境内に分霊を勧請したものと思われます。

舞殿風拝殿と、その奥にご本殿


通常は門の手前でのお参りですが、 毎月第2、4日曜日には門が開放され、巫女による御神楽祈願が行われます。

毎月色の異なる御幣が受けられ、5色揃うと金の御幣が拝受出来るとのこと。
上賀茂神社でもそんなことをやっているのかぁえー


見えないですが、「新宮神社」の左手に鎮座するのが、
末社・山尾神社
【御祭神】大山津見神


御物忌川を背にして鎮座する、
 末社・川尾神社

【御祭神】罔象女神

御物忌川は、神域への境界となる川で、穢れを祓う清浄な川キラキラ波です。
川尾神社は、この川の水神を祀っています。


対岸にあるのが、
摂社・片山御子神社(片岡社)。

【御祭神】賀茂玉依姫命
賀茂別雷大神の母神です。

境内に24ある摂末社の中で、第1摂社に 定められています。


こちらも、舞殿風拝殿の奥にご本殿のスタイル。

天正19年(1591年)には、朝廷より「正一 位」という神階が授けられ、 片岡社に対 する篤い信仰が伺えます。

賀茂玉依姬命は、賀茂縣主族の祭祀権を握っていた最高の女性。
本社御祭神・賀茂別雷大神をお生みになった神で、 常に賀茂別雷大神のお側にお仕えしていますキラキラキラキラ
そのため、現在でも本社恒例の祭祀には、まず当神社で祭りを行うこと=片岡社先祭が通例となっています。

①賀茂別雷神の母・賀茂玉依姫命。
②神の霊の依り憑く巫女を神格化した神・玉依比売命。
この両方の意味を持つ神ということなのでしょうかキョロキョロ


ご本殿乙女のトキメキ乙女のトキメキ
 
「片岡社」は、縁結び・恋愛成就・家内安全・子授け・安産の神様として有名で、『源氏物語』の作者である紫式部
篤い信仰を寄せています。

当神社に参拝祈願された際に詠まれた和歌が残されています。


「ほととぎす 声まつほどは 片岡の
もりのしづくに 立ちやぬれまし」
『新古今和歌集』巻第3 夏歌

「ホトトギスの声を待っている間は、この片岡の杜の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう。」




片山御子神社の右手に鎮座するのが、
摂社・須波神社

【御祭神】
阿須波神・波比祇神・生井神・福井神・綱長井神
宮中の神祇官西院に祀られていた、
「坐摩神」の五柱を祀っています。


当社は式内社「須波神社」の論社で、本来は「諏訪社」と呼ばれていました。


須波神社の手前に、
岩山(がんじょう)

 
注連縄の張られたこの岩は、「葵祭」の際に宮司がこの上で蹲踞して橋殿の勅使と対面し(橋殿が見えますね)、御祭文に対して神のご意志を伝える「返祝詞」を述べる神聖な場所ですキラキラキラキラキラキラ

神山における御祭神の降臨を再現し、古代祭祀の形を今に伝える場所であり、この場面は「葵祭」において最も重要な一幕です。
この岩は、上賀茂神社の祭祀において極めて重要な意味を持つ磐座なのです。

この土地の「気」の発生源で、最も強いパワーを持つ場所と言われています。


岩上の後方にある禁足地も含め、古代の自然崇拝的な神域感が漂います照れキラキラキラキラ


西の鳥居



授与所の横、御手洗川沿いに、
末社・橋本神社

【御祭神】衣通姫
大変美しい女性であり、美しさが衣を通して輝くキラキラことが神名の由来とのこと。


橋本神社から楼門方向へ向かう、御手洗川に架かる樟橋


この日は抜けるような青空でした太陽
橋殿の前の新婚のご夫婦ラブラブラブラブ





【賀茂斎院の制】
賀茂斎院は、伊勢の斎宮のように、必ずしも天皇の代替りごとに交代されていた訳ではなかったようです。
御所内の「初斎院」と言われるところで、3年間日々潔斎し、毎月朔日には賀茂の大神を遥拝する生活を送りました。

3年を経て野宮 「紫野院」に入り、賀茂川にて御禊アセアセを行った後、初めて祭事の奉仕が許されました。

この紫野院は、現在の京都市上京区にある 「櫟谷七野神社」辺りにあったと推定されています。 

この神社も一応チェックはしてあって、時間に余裕があれば行きたかったのですが、行けませんでしたぼけー


【斎王代以下女人列御禊の儀】
葵祭当日(4月2番目の酉の日)に先立つ午または未の日に、斎院より賀茂川の河原に赴き、 身を清められる 「禊」が行われていました。 
現在は往時の「御禊」の再現として、15日の葵祭を前に、斎王代が身を清める「御禊の儀」が、5月4日に上賀茂・下鴨両神社で毎年交互に斎行されることとなりました。

上賀茂神社では「橋殿」を祭場として行われます。

※画像は公式HPより。

ちなみに今年2022年は、上賀茂神社で行われます。



ならの小川波




川向こうにお社が見えます。



末社・岩本神社

【御祭神】 
底筒男神・中筒男神・表筒男神
(住吉三神)

岩の上に鎮座しています。


そのまま先へ進むと、
二葉姫稲荷神社との社号碑があり、千本鳥居の参道が上へと続いていました。



参道途中に、
御影龍神龍


八嶋龍神龍

古くは神宮寺の庭園に1,500坪の池があり、中央の辨天嶋に鎮座していたとのこと。
元は上賀茂神社の境内地でしたが、明治になり鎮座地が耕地となってしまい、昭和になって神宮寺山の霊地に鎮座しました。


天之斑駒神社

初めて出会いましたびっくり珍しいです。
「天の斑駒」と言えば、スサノオが、
神衣を織る斎服殿の中に、皮を剥いで投げ入れたあの馬です馬
そのショックで服織女のワカヒルメが亡くなってしまいましたが、考えてみたら投げ込まれた馬のほうもかなり可哀想ですよねぐすん


さらに奥に、金毘羅宮

いちばん奥の「二葉姫稲荷神社」だけは、若いカップルがずっと社殿前で写真を撮っていたので、撮影をあきらめましたにやり


山を下りて来ました。

「渉渓園」と呼ばれる庭園です。
平安装束に身を包んだ歌人たちが、川に杯を流しながら和歌を詠む「賀茂曲水宴」を復活させるために、昭和35年に整備されたとのことです。



摂社・賀茂山口神社

【御祭神】御歳神
こちらも舞殿風の拝殿です。
本殿との間にはなぜか道が横切っています。


式内社「賀茂山口神社」の論社ですが、本来は「澤田社」と呼ばれていたとのこと。




社殿の右手には「願い石」

「陰陽石」です。
かつて渉渓園に龍龍の住む池があり、その池の底から出土したものであると言われています。




この、石が紐でくくられているものは何でしょう??キョロキョロ



外幣殿(馬場殿)からならの小川を挟んだ向かい側に、
摂社・奈良神社

【御祭神】奈良刀自神

記紀には登場しない神です。
社伝によると、神饌を盛るのに楢(なら)の葉を綴じ合わせたものを使用したことから、神饌を司る神として祀られているようです。
「刀自」とは古代の女性の敬称。小川のほとりで祭祀を行っていた女性を神格化したものなのかもしれません。


隣接して
北神饌所(庁屋)

本来は、神様に供える神饌を調進したところでした。神饌の神とされた「奈良神社」に隣接するのも頷けます。
後には政庁としても使用され、現在は能舞台としても使用されています。


こちらは、神庫(宝物殿)でしょうか?




ならの小川に沿って、2社並んで鎮座するのが、

山森神社

【御祭神】
素盞鳴神・奇稲田姫神・田心姫神

スサノオ&イナダヒメに、タゴリヒメとは、変な組み合わせですびっくり

式内社「賀茂山口神社」、また式内社「鴨岡太神社」を当社に比定する説もあります。


梶田神社

【御祭神】瀬織津姫神

「祓戸の神」として祀られています。
つまり、一の鳥居をくぐったら、こちらからまず先に参拝するのが正解ですね⭕おねがい
ならの小川のせせらぎを聞きながら、心身の穢れが祓い清められていくようです照れキラキラキラキラ



【御朱印】


【二葉葵について】
「葵」は古く 「あふひ」 と読み、「ひ」=「神霊」を意味します。
つまり「葵」とは 「神と逢うこと」であり、 「逢う日」でもあります。 

御祭神の降臨の際に 「葵」を飾り祭りをせよとの御神託があったことから、神と人とを結ぶ草として当神社の御神紋となりました。



2泊3日の京都旅行で全10社を巡りました。
「上賀茂神社」は、その中でいちばん最初に訪れた神社ですが、とても強く印象に残っています照れ乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ

記事を編集鉛筆していると、もう1度訪れたような感覚になりますキラキラキラキラキラキラ
この記事はかなり時間をかけたので、ずっと上賀茂神社の境内をさまよっていたような気分ですキョロキョロ

境内を聖なる川波が流れる神社って、やっぱり最高に清々しいですよね乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ
「賀茂別雷神社」大好きな神社ですラブ


長文の記事をお読みいただき、ありがとうございました爆笑ルンルンルンルンルンルン