2021年11月26日参拝。
賀茂御祖神社(下鴨神社)
京阪電鉄・出町柳駅より徒歩12分。
市バス4系統・205系統「下鴨神社前」すぐ。
参道の左手には、旧三井家下鴨別邸があります。
車止めも鳥居の形で可愛い
錦鯉が泳いでいました
糺の森の中の表参道。
「御蔭祭」は、比叡山山麓の八瀬御蔭山より神霊を本社へ迎える神事です。
旧祭式の頃は「御生神事(みあれしんじ)」と呼ばれていましたが、新祭式となり、神事斎行の場所が東山36峰の2番目の山・御蔭山の麓であったことから「御蔭祭(みかげまつり)」と名前を変えました。
「伊勢神宮」における五十鈴川のように、手水舎ではなく、ここで禊をするのも素敵
手水舎
二の鳥居。
楼門の手前左手に、
相生社(あいおいのやしろ)。
【御祭神】神皇産霊神
古代から縁結びの神として知られています。
御祭神は、『日本書記』には「産霊神」(むすひのかみ)、『古事記』には造化三神の一柱の神とあります。
「産霊神」は宇宙の生成力を神格化したものとされ、「産(むす)」は「苔むす」のむすと同じく生成の意味です。
「霊(ひ)」は日・火と共通の意味をもち、霊妙な物を表わす語と考えられています。
楼門。
「賀茂御祖神社」=通称:下鴨神社は、
式内社(名神大社)・山城国一之宮・二十二社(上七社)の一社です。
京都は鴨川を中心に町作りがされていて、鴨川の下流に祀られていることから「下鴨さん」と親しく呼ばれています。
『鴨社造営記』によれば、崇神天皇7年(BC90年)には、神社の瑞垣の修造が行われたという記録があり、それ以前の古い時代から祀られていたと思われます。
『旧記』によると、緩靖天皇(BC580年)の御代より「御生神事」が行われたとの伝承があるとのこと
糺の森周辺の発掘調査でも、縄文時代の土器や弥生時代の住居跡がたくさん発掘されています。
『本朝月令』『年中行事抄』によると、欽明天皇5年(544年)4月から「賀茂祭(葵祭)」が行われていることがわかります。
平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神として、国の重要な出来事には、必ずご祈願が行われました。
『源氏物語』や『枕草子』などにも度々登場していて、この時代の文化・宗教の中心地として栄えたことがわかります。
舞殿。
京都の神社では拝殿に相当します。
「葵祭」の際に勅使が御祭文を奏上し、「東游(あずまあそび)」が奉納されます。
御所が災害に遭った際の臨時の内侍所と定められています。
21年目ごとに解体修理が行われます。
楼門を内側から。
中門(四脚門)。
中門をくぐると正面に蕃塀。
社殿を隠すように設置される横に長い塀のことで、神様が直視されることを避ける、また、悪霊や災厄を防ぐためのものとも言われています。
言社(ことしゃ)。
7つのお社があり、「大國さん」と呼ばれています。
子年から亥年までの生まれ年の守護神
としても有名で、古くから信仰を集めています。
一言社。
【御祭神】顕国魂命
【御祭神】大国魂命
二言社。
【御祭神】大国主命・大物主命
三言社。
【御祭神】
大己貴命・志固男命・八干矛命
幣殿
実質的にはここが拝殿です。
ご本殿は通常は見ることは出来ません
【御祭神】
《西本殿》 賀茂建角身命
《東本殿》 玉依媛命
賀茂建角身命は、神武天皇が熊野から吉野へ入る際、八咫烏に姿を変えて導かれました。
御子神・玉依媛命は、「上賀茂神社」の記事にも書いた通り、鴨川で禊をしている時に、上流より流れて来た丹塗り矢🏹を持ち帰り、懐妊されたという神話が伝わります。
「御祖神」と言えば一般的に母神を指します。
前回記事の「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」の御祭神・賀茂別雷大神の母神である、玉依媛命をお祀りしているため、
「賀茂御祖神社」なのです
【特別拝観】
・十二単衣の着付けと王朝舞
「葵祭」で現在でも使われている「十二単衣」の着付けの解説、着付けの後、十二単衣姿による王朝の舞を三井神社舞殿にて見学出来るとのことです。
元旦と葵祭当日以外、毎日行っていて、案内時間は約4時間。
料金は4万円(80名まで)とのこと
印璽社(いんじしゃ)。
【御祭神】霊璽
御本殿間近に古くから祀られています。
「印璽」とは、しるし・おして・印形のこと。
印影がわが国に渡来したのは聖徳太子(574~622年)の頃とされています。
印は、古くより宮廷や社寺において貴重な秘印として扱われ、それが次第に神格化されていきました。
現在では、契約の神として、大切な契約の時、物事を成功させたい時などに参拝される方が多いそうです。
ご本殿の西側に鎮座するのが、
三井神社。
【御祭神】
《中社》賀茂建角身命
《東社》伊賀古夜媛命
《西社》玉依媛命
中社に合祀。
日吉神社
【御祭神】大山咋命
沢田社
【御祭神】御歳神
『山城国風土記』逸文には、当社のことが記載されている一方、「賀茂御祖神社」については記載されていません。
このことから、「賀茂御祖神社」が創建される以前から当地に鎮座していたと考えられます。
出雲郷との境界は不詳ですが、奈良時代から平安時代にかけて、当地一帯は蓼倉郷と呼ばれていたようです。
さらに西側にも3棟の末社が南北に並んで鎮座しています。写真撮れませんでした
※画像はネットより拝借。
北側(奥)から、
諏訪社
【御祭神】建御名方神
小杜社
【御祭神】水分神
白鬚社
【御祭神】大伊乃伎命(別名:猿田彦神)
白鬚社に合祀。
河崎社
【御祭神】猿田彦神
斎王神霊社
【御祭神】歴代斎王神霊
神服殿。
夏冬の御神服を奉製するところでしたが、近世以降は勅使殿・着到殿としても使用され、御所が災害に遭った際は臨時の御座所ともされました。
現在も「玉座」があり、平常の使用が禁じられていることから「開けずの間」とも呼ばれています。
こちらも、21年目ごとに解体修理が行われています。
殿内には、平成6年に天皇皇后両陛下が御参拝でご使用された「玉座」とともに、非公開の文化財があり、予約をすれば特別公開されます。
夫は、棒に引っ掛けて雨戸を上に開けておくシステムに、ひたすら感心していました
解除所(げじょのところ)。
行幸・御幸・官祭にさいして解除(お祓)をされるところ。
当神社は古代から天皇ご親斎のお社です。
媛小松。
「媛」の文字が使われているのは、御祭神の玉依媛命の名前にちなんだもの。
藤原敏行は、
「ちはやぶる 賀茂のやしろの 姫小松
よろづ世ふとも 色はかはらじ」
と詠んでいます
『古今和歌集』より。
供御所。
御殿の中は東・中・西の三間に分かれています。
《東の間》は神饌を調理するところ。
《中の間》は魚介鳥類を調理するところ=贄殿。
《西の間》は神官などが参集し、直会・勧盃の儀などを行うところ=侍所。
こちらも21年ごとに解体修理が行われます。
出雲井於神社(いずもいのへの)
【御祭神】建速須佐乃男命
《合祀》
末社・岩本社(北社)
【御祭神】住吉神
末社・橋本社(南社)
【御祭神】玉津島神
『延喜式』にも「出雲井於神社」とあり、この地域の氏神社、地主社として信仰されています。
『日本書紀』神武天皇2年の条では、
「葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)」とある人々が祖神を祀った神社としています。
当神社の中では最も古い貴重な社殿です。
大宝令(700年)以降、山城国葛野郡は4つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山・北山までの地域が愛宕郡、鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸が出雲郷となりました。
「井於(いのへ)」とは、鴨川のほとりのことで、出雲郷の鴨川のほとりの神社という意味です。
周囲にどんな木を植えても葉がギザギザになることから、通称:「比良木社(柊社)」と呼ばれています。
このお社の周りに献木して厄年の祈願をすると、柊になって願い事が叶うことから、「何でも柊」とも呼ばれているそうです
境内の東側を流れる御手洗川の上に架かる、橋殿。
土用の丑の日に、この御手洗川に足を浸し、疫病やガン封じなど無病息災を祈願して賑わう「足つけ神事」=御手洗祭や、葵祭に先立つ「斎王代の御禊の儀」など、祓の神事が執り行われます。
「上賀茂神社」の記事でも触れましたが、「斎王代御禊の儀」は、葵祭の斎王代以下、女人列に参加する40人の女性が身を清める神事です。
西参道の鳥居。
この日は「下鴨神社」でも結婚式があり、参集殿の方へ行けなくて、この鳥居の右手を入ったところにある祓社へもお参り出来ませんでした
末社・祓社
【御祭神】
賀茂建角身命・玉依媛命・祓戸大神
この神様の台所・大炊殿も、拝観料500円で拝観出来ます。
時間があれば見てみたかった
井戸屋形・御車舎を公開。
葵祭の特殊神饌等、古代より伝わるお供えのレプリカや調理器具等が特別展示されています。
入り口の土間に竈(おくどさん)があります。
末社・印納社。
【御祭神】
印璽大神(おしでのおおかみ)
倉稲魂神
御本殿の瑞垣内に古くから祀られている印璽社の御祭神を祀り、ここに古印を納め御守護を仰ぐお社です。
この一帯は、平安初期~室町時代まで賀茂斎院御所のあった由緒地です。
(文明の乱により焼失)
末社・愛宕社(東社)。
古名:贄殿神・酒殿神・奈良殿神
【御祭神】火産霊神
稲荷社(西社)。
古名:専女社(とうめのやしろ)
【御祭神】宇迦之御魂神
文明の乱以降、両社を相殿として祀りました。
愛宕社は、古く賀茂斎院御所の守護神として御所内に祀られ、
稲荷社は賀茂斎院御所内の忌子女庁屋の池庭の中島に祀られていました。
西参道の手水舎
やっぱり「下鴨神社」より「上賀茂神社」のほうが好きかな
「水」の分量の違いだと思います
次回記事では、「河合神社」と、その先の馬場沿いにいくつか並ぶ境内社をご紹介します
長文の記事をお読みいただき、ありがとうございました