2020年6月3日参拝。
「出雲祝神社」と「中氷川神社(三ヶ島)」のちょうど間にあります
~崇徳天皇と愛宕神社の関係~
鳥居と社号碑。
西武池袋線・小手指駅南口より
西武バス・宮寺西行き「糀谷」下車 徒歩3分。
鳥居をくぐり参道を少し進むと、
石段。
明るい境内に拝殿が見えます
右手に手水舎
水盤に水はありません
拝殿
まだ比較的新しそうです。注連縄も青々としています
創建年代は不明ですが、『風土記稿』に「宇佐八幡宮」「鶴ヶ岡八幡宮」を勧請して「若宮八幡」と号したことが記されています。
さらに、神社周辺に「宮前」「宮後」などの字名があることから、当社が古くから現在地に鎮座していたことがわかります。
明治5年村社に列格。
明治41年には、境内社として山神社・浅間神社・八雲神社・気比神社・愛宕神社・金比羅神社を合祀し、糀谷の鎮守となりました。
神額。
【御祭神】
応神天皇
この八幡神社は、御祭神は応神天皇1柱だけ。
神功皇后を合わせ祀っていません。
母・神功皇后がいないのに、境内社に父・仲哀天皇を祀っています。
そしてもう1点。
境内社の愛宕神社には、崇徳天皇を祀っています。
賽銭箱。
賽銭箱の右手に、木彫りの龍。
『降り龍 神力降臨 「宝珠」右手』と書いてあります。
幣殿とご本殿の覆屋。
ご本殿の右手に境内社が並んでいます。
向かって左、ご本殿に近いほうから、
気比神社。
【気比神宮について】
「氣比神宮」は、 福井県敦賀市に鎮座する、越前國一之宮です。
『古事記』によると、
武内宿禰は幼い皇子を連れて禊を行う場所を求めて巡り歩き、越前国の角鹿(つぬが)に仮宮をつくって皇子を住まわせたことが書かれています。
角鹿まで禊に行ったのは、気比大神に詣で、名前替えの神事を行うため。
禊の後、神の名を自分の名にするのは、典型的な成人儀礼でした。
角鹿(つぬが)→敦賀です。
『日本書紀』にも、
皇太子は、武内宿禰を従えて角鹿の笥飯大神(けひのおおかみ)を拝した、とあります。
この角鹿の地は、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐に行く前に、行宮を建てて「笥飯宮」として住まれたところでした。
=「気比神宮」です。
この時、皇太子が笥飯大神と名を交換し、皇太子が誉田別尊、大神が去来紗別神と名乗った、と書かれています。
「気比神社」の社殿の裏に石碑が2つありました。
『天祖◯神』3文字めは、「大」だと思いますが、飾りが付いています
こちらは全然読めませんでした
山神社・浅間神社・八雲神社の合祀殿です。
山神社
【御祭神】大山祇命
浅間神社
【御祭神】木花咲耶姫命
八雲神社
【御祭神】須佐之男命
「山神社」は、旧鎮座地の小高い塚の上に、現在も小祠が残されているそうです。
場所がどこなのかの情報はありませんでした
社殿を一心に見つめる木彫りの像。
降り龍と同じ作者によるものでしょうか…。
いちばん右の境内社は、90度向きを変えます。
金比羅宮・愛宕神社・三峯神社の合祀殿。
金比羅宮
【御祭神】大名牟遅神
愛宕神社
【御祭神】可遇突智命・大物主神・崇徳天皇
三峯神社
【御祭神】伊弉諾尊・伊弉册尊
【崇徳天皇について】
崇徳天皇の御霊を祀った神社と言えば、『白峯神宮』です。
なのに、なぜ「愛宕神社」の御祭神に
鳥羽天皇の第一皇子である顕仁親王(崇徳天皇)は、実は祖父・白河法皇の子であると噂されました。
祖父の意向により5歳で即位した崇徳天皇は、法皇の庇護下にあるうちは順調でしたが、法皇が没すると状況は一変。
鳥羽上皇は、躰仁親王(近衛天皇)を皇位に就けるため、崇徳天皇に退位を迫り、崇徳天皇は心ならずも譲位して23歳で上皇となります。
ところが近衛天皇は病弱で、皇子女をもうけないまま17歳で亡くなりました。
崇徳上皇は我が子・重仁親王を擁立しようとしますが、
『崇徳上皇が藤原頼長に命じて、愛宕神社で呪詛を行わせて、近衛天皇を呪い殺した。』
という噂が広まり、これに激怒した鳥羽法皇は雅仁親王(後白河天皇)を即位させました。
望みを断たれた崇徳上皇はクーデターを起こし、権力奪回を試みます。
=保元の乱です。
敗退した崇徳上皇が、讃岐に流され46歳で亡くなると、都では凶事が相次ぎ、崇徳上皇の祟りだと噂されます。
『太平記』にはこんな場面があります。
こんなにも世の中が荒れるのは、京都の山奥に良からぬ化け物が集まっているからに違いない。
法師が京都の近くの愛宕山に夜な夜な登ってみると、日本の怨霊たちが全て集まって、世の中をどうやって滅ぼそうか会議をしていた。
その怨霊たちの首座にいたのが、天皇家に呪いの言葉を残して亡くなった崇徳上皇だった。
朝廷の人間は、政権を失った原因は自分たちの怠慢ではなく、崇徳上皇の怨霊のせいであると思っていたのです。
【祟り神】は、祟られたと感じる側が作り上げた神です
そして、この時から700年後の明治になって、王政復古が行われ、
その直前に朝廷は、京都に崇徳上皇の御霊を祀る「白峯神宮」をつくったのです。
政権がまた天皇家に戻って来ることになったので、ここでまた崇徳上皇を怒らせるととんでもないことになるからです。
【愛宕神社とカグツチ】
崇徳上皇が「愛宕神社」で呪詛を行い天皇を呪い殺した、という噂が広まったのは、「愛宕神社」が元々呪詛と関係のある神社だからなのではないでしょうか。
山田雄司氏の『崇徳院怨霊の研究』によると、
その呪詛の方法とは、近衛天皇の霊が口寄せした巫女によれば、
『誰かが呪詛して愛宕山の天公像の目に釘を打ったため、自分は目が見えなくなり、ついには亡くなってしまった。』
とのこと。
天公像を調べると、その通りだったそうです。
愛宕神社の御祭神・カグツチは、母であるイザナミを殺した忌み子だと言われています。
「愛宕」は、「愛」という漢字に「宕」という、石で蓋をする意味の漢字の組み合わせ。
愛する我が子を封印した、という意味になるのです
古代には、流れる血によって新たな生命が生まれると信じられていました。
カグツチの首を斬り落とし、流れる血によって多くの神々が誕生したことを考えると、カグツチは神々の誕生のための生贄であったと言えます。
以上は、ネットで見つけた説なのですが、関連して
「崇徳院怨霊の研究」山田 雄司
「怨霊になった天皇」竹田 恒泰
を読んでみたくなりました。
私は拝受していませんが、「糀谷八幡神社」の御朱印帳にはホタルがデザインされています。
崇徳天皇の御霊=『白峯神宮』という知識しかなかったけれど、祀られたのはだいぶ後になってからだったのですね
そして、カグツチが多くの神々の誕生のための生贄だなんて、考えたことなかったです
怨霊系の話になってしまいましたが、鎮座地は、とってものどかで気持ちのいいところですよ
【参考文献】
●「日本の神様読み解き事典」 柏書房
●「ビジュアル百科 写真と図解でわかる! 天皇〈125代〉の歴史」 山本博文 西東社
●「歴代天皇事典」 高森 明勅 PHP文庫
●「神社検定公式テキスト⑩ 神話のおへそ『日本書紀』編」 神社本庁
●「眠れないほど面白い『古事記』」 由良弥生 王様文庫
●「井沢式『日本史入門』講座4~「怨霊鎮魂の日本史」の巻」 井沢元彦 徳間文庫
【ネット記事】
○不思議空間「遠野」~「遠野物語」をwebせよ!~ dostoev by excite blog
長々とお読みいただきありがとうございました