6月18日(木)、東京都多摩地域の神社へ行って来ました
1日だけフライングして、県をまたいでの移動をしてしまいました。
ごめんなさい
今回ご紹介するのは、
阿伎留神社(あきるじんじゃ)です
JR五日市線・武蔵五日市駅より徒歩12分。
元は五日市町でしたが、平成7年に秋川市と合併してあきる野市になっています。
毎月5と10の日に市が立ったことから、「五日市」です。
山村から運ばれる薪炭と、日用品とを交換することが目的の市でした
駅を出て33号線檜原街道をまっすぐ進み、「五日市出張所入口」の信号🚥を左に入ります。
そのまま進むと突き当たりに境内があります。
大鳥居。
延喜式神名帳で武蔵国多摩郡八座の筆頭に挙げられている式内社で、明治以降いち早く郷社に列格しました。
「阿伎留」は、「畔切」「秋留」などとも書かれますが、いずれも「あきる」と読みます。
鳥居をくぐるとしっとりとした境内
正面には神楽殿が見えます。
右手に手水舎
水盤
感染症対策のため水は流れていませんでした
神楽殿の手前で90度右を向くと、石段の上に社殿があります。
拝殿手前の狛犬さん
古いもののようでした。
拝殿へと向かう前に、左手のお社へ。
祓戸社です。
祓戸四神が祀られています。
大麻(おおぬさ)が置かれています。
左右左と振って、自分自身で祓い清めることが出来ます
拝殿
社伝によると、創建の時期は崇神天皇7年とされています。
天穂日命の17世の孫の、武蔵国造・土師連男塩(はじのむらじおしお)が初代の神主となり、以後、現在に至るまで約75代にわたってその子孫が奉仕しているとのことです。
天穂日命・建夷鳥神を遠祖とする土師氏の一族が、氏神を祀ったということのようです。
江戸時代には社領の地名から「松原大明神」と称され、現在も通称は「松原さま」だそうです。
江戸中期には一時「春日大明神」と呼ばれていました。
藤原秀郷が平将門征討に際して戦勝を祈願し、山城国の「大原野神社」の土を遷して祀ったと伝えられています。
「大野原神社」の別称は「京春日」で、春日大社第一の分社です。
神額とお賽銭箱。
お賽銭箱の紋は、「丸に三つ柏」。
柏の木は神道の儀式に深い関わりを持っていることから、神社の神事を司る神主の家で、家紋として用いることがあったようです。
【主祭神】
大物主神 おおものぬしのかみ
【配祀】
味耜高彦根神
あじすきたかひこねのかみ
建夷鳥神 たけひなとりのかみ
天児屋根命
あめのこやねのみこと
※『新編武蔵風土記稿』では味耜高彦根命の一柱のみとなっています。
天穂日命の子・建夷鳥神は、前述のように土師氏一族の遠祖です。
藤原氏の氏神・天児屋根命は、「春日大明神」と呼ばれていた時期に祀ったものと思われます。
【味耜高彦根神について】
『古事記』の国譲りの場面で、アメノワカヒコの友人として登場する、イケメン神様です。
友人アメノワカヒコのお葬式に天から弔問に訪れ、その姿がアメノワカヒコに瓜二つだったため、死者が生き返ったと皆に間違われてしまいます
死者は穢れとされ忌み嫌われていたため、激怒したアジスキタカヒコネは、長い剣で喪屋を切り倒し足で蹴飛ばして、天空へと飛び去りました
この時の姿は雷神をイメージさせるものでした。
古代の人々は、雷鳴が天空を駆け巡る様子から神の乗り物と考え、落雷からは天地を往来する雷神を連想したのです。
味耜高彦根神の「耜」=スキ=鋤。
農具の鋤は、田の神を祀る時の呪具であり、アジスキタカヒコネは、元々は鋤をご神体とする農耕神だったと言われています。
鋤は、現在のスコップのように、足で踏み込んで田畑の土を起こす道具です。
『日本霊異記』には、道場法師が鋤を用いて渇水の田に水を引き入れるという説話があります。
鋤は神霊の依り代として機能し、そこに宿るのは雷神=水の神と考えられていました。
鋤と雷は、密接な関係を持つものとして農民の間で信仰されていたと思われます。
田植えの前に、春一番にする「畔切り」という作業があります。
冬を越した田んぼの畔は、草の根で出来た穴やモグラなどの穴によって、水を保水する能力が低くなるので、新しい畔をつけるための下地づくりとして鋤で畔切りをするのです。
「畔切」=「阿伎留」と、味耜高彦根神が繋がって来ます
【迦毛大神について】
味耜高彦根神の別名は、
迦毛大神(かものおおかみ)です。
迦毛=鴨・賀茂。
奈良県「高鴨神社」の御祭神です。
『続日本紀』にこんな話があります。
雄略天皇が葛城山で狩りをした時、土地の老猟師と獲物を取り合い、天皇は猟師を他国へ追放します。
後に、その老猟師が葛城山に宿る神霊と分かり、その地に手厚く祀りました
それが迦毛大神です。
この話は、大和朝廷の勢力と出雲系の神を祀る人々との衝突を反映したものと見られています。
※戸部民夫氏『日本の神様がよくわかる本』より
【天稚彦命について】
阿伎留神社と直接関係はありませんが、アジスキタカヒコネが間違えられたアメノワカヒコは、昔から物語によく登場し、いずれも悲劇のイケメンとして描かれています。
七夕の彦星が有名です
国譲りの場面で2番目に地上に派遣されますが、使命を放棄し、大国主命の娘・下照姫命と結婚し、8年立っても戻りませんでした。
使者として送った雉(きじ)を、神聖な弓矢で射殺してしまいます🏹
そのまま天まで飛んで来た矢をタカミムスビが地上に投げ返し、寝ていたアメノワカヒコは、矢で胸を貫かれ死んでしまいます。
『返し矢恐るべし』ということわざの由来となっています。
このアメノワカヒコとアジスキタカヒコネの関係は、穀霊の死と生を象徴しているとされています。
秋に死んだ穀霊が、春に新しい生命力を宿して再生する、農耕祭祀の穀霊の死と再生の儀式がテーマとなっているのです。
※戸部民夫氏『日本の神様がよくわかる本』より
だから二神は瓜二つなのですね
ちなみに、アメノワカヒコと結婚した下照姫命はアジスキタカヒコネの妹です。
兄にそっくりな男と結婚したということですね
「下照」=太陽の光が地上を照らすという意味で、穀物の豊穣に関係する女神です。
下照姫命も天稚彦命も、迦毛大神(味耜高彦根神)とともに、「高鴨神社」に祀られています。
境内の紹介に戻ります。
拝殿前のすぐ右手に、
神輿殿。
毎年9月28~30日に行われる例大祭の神輿渡御の際、本宮を出た神輿を迎えて仮に奉安するところです
百貫を超える六角神輿が街道沿いを練り歩く迫力のあるお祭りですが、新型コロナウイルス収束の見込みが立っていないことから、残念ながら今年は中止が決まったそうです
※六角神輿は三諸さんの記事で見ることが出来ます。
【御朱印】
末社大鳥神社の、さらに奥へ行ったところにある社務所でいただけます。
下の印は「武蔵国造 勲功一宮 畔切政所」と読めます。
「勲功一宮」は、勲位において武蔵国第一であることを表しています。
『三代実録』には、「武蔵国正五位下勲六等畔切神に従四位下を授く」とあります。
武蔵国で勲位を授けられた神社は、勲六等の「阿伎留神社」と勲七等の「秩父神社」のみです
御朱印を書いていただく間、社務所の玄関先で待たせていただきました。
玄関は間口が広く、まっすぐ続く廊下も幅が広く、しっとりとした素敵な建物でした
こんなところでもしも生活をしたら、価値観が大きく変わるだろうなぁ…とぼんやり考えたりしました