百人一首の歌人‐39、40 喜撰法師 文屋康秀 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人‐39、40 喜撰法師 文屋康秀

 今回は六歌仙から二人を選んだ。といっても二人とも百人一首以外は一首しか見当たらない。六歌仙とは『古今和歌集』の序文に記された六人の代表的な歌人のこと。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主の六人を指す。錚々たるメンバーであるが、六歌仙は当時ではなく後からつけられたとのこと。何故、二首しかそれぞれ残っていないのか。藤原定家が選んだ当時はもっと残っていたのか、そうでないと彼が選んだことがよくわからない。田辺聖子が言う通り、百人一首の選定には謎が多すぎる気がする。まあ、いずれも心に残る歌ではあるが・・・。

喜撰法師

「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」

(私の庵は都の東南にあって、このように(平穏に)暮らしているというのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ。)

喜撰法師(9世紀後半)

六歌仙の一人。伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後に醍醐山へと入り、後に宇治山に隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。ちなみに「六歌仙」とは、平安時代初めの和歌の名手たちを6人選んだもので、在原業平、僧正遷昭、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀、小野小町のことを言う。

喜撰法師は、京都府宇治市の宇治山に籠もり、「穀物を食べず、薬を服す」仙人のような生活を送っていたと言われている。

実際に現在では、宇治山は「喜撰山」と呼ばれており、有名な幕末の狂歌(きょうか:世間のことを、風刺をきかせて滑稽に詠んだ歌)である「泰平の 眠りを覚ます 蒸気船 たつた四杯で 夜も寝られず」では、「じょうきせん」に喜撰法師の名を由来とする宇治茶の「上喜撰」をかけて、「泰平の世の中に蒸気船が4隻来航して国内が混乱し、[お茶を飲んで]夜も寝られない」と詠んでいる。

また、歌舞伎や日本舞踊の演目のひとつ「六歌仙容彩」(ろっかせんすがたのいろどり)には、喜撰法師が作中人物のひとりとして登場。喜撰法師は、満開の桜の下で出会った美しい女性「お梶」(おかじ)をほろ酔い加減で口説こうとするものの、結局逃げられてしまうという見どころのある役。

最後に、百人一首の他の歌は下記の通り。

木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも(玉葉和歌集400。また孫姫式)

文屋康秀

「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」

(山から秋風が吹くと、たちまち秋の草木がしおれはじめる。なるほど、だから山風のことを「嵐(荒らし)」と言うのだなあ。)

文屋康秀(生没年不明)

9世紀頃の平安初期の歌人で、別称・文琳。形部中判事、三河掾、縫殿助など官職は低かったのだが、六歌仙の一人で歌人としては有名だった。三河掾になって三河国(現在の愛知県東部)に下るときに小野小町を任地へ誘った話が有名。

 他には下記の歌が知られている。

「白雲のきやとる峰のこ松原枝しけけれや日のひかりみぬ」