百人一首の歌人―37、38 蝉丸、猿丸大夫 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人―37、38 蝉丸、猿丸大夫

 これまで、このシリーズは主にSNSで仕入れた情報を書き出した形で提示してきた。これでは、何の面白みもないだろうということで、今回から最初に、取り上げる歌人たちについての所感を述べてみたい。

 蝉丸も猿丸大夫もはっきりしたことは分かっていない。しかし、どちらもよく知られた百人一首歌人である。特に蝉丸は一度聞いたら忘れない和歌を残している。あのタモリがブラタモリの中で、この歌の意味がよくわからないといっていたが、確かにその通りだ。田辺聖子は「田辺聖子の小倉百人一首」の中で「百人一首のかるた絵で見ると、蝉丸はかぶりものをしていて、僧とも言えず俗体とも言えず、不思議な姿、「坊主めくり」などすると議論がわくところである。蝉丸というのは伝説的な人物で、はっきりしない。藤原定家の時代は実在を信じられていたかもしれないが、その生涯は神秘のベールに包まれている。「今昔物語」では蝉丸は敦実親王(宇多天皇の皇子)の雑色(雑役を務める身分の低い従者)ということになっている。親王は音楽家として著名で、琵琶をよく弾かれた。蝉丸は長年お仕えしてその音色をおぼえ、自分もいつかその道の名手といわれるようになった。後に盲いて法師となり、逢坂の関に庵を結んで暮らしていた。

「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋はかなしき」この美しい歌の作者に擬せられている猿丸大夫は、なぜか歌仙絵では風躰いやしきオッサンに描かれている。この猿丸大夫という人は、どうも実在の人物ではないようだ。伝説上の人物が、いつか実在の人物のように伝えられてしまったらしい。「猿丸大夫集」と伝えられるものも、みな、詠み人知らずの歌を集めたもので、探っていけばいくほど、猿丸大夫の存在は茫々と歴史の闇の中に消えて行き、謎は深まるばかりである。誰か、作者不明の歌ばかり集めて「猿丸大夫集」と名付けたのか、何か意図があったのか。梅原猛は柿本人麻呂が猿丸大夫だったとする。

 いずれもその存在すら危ぶまれているが、歌は印象深い。

 

 蝉丸

「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」

(これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。)

 蝉丸(せみまる。9世紀の人らしい)

はっきりしたことは分かっていないが、今昔物語には宇多天皇の第八皇子・敦実親王の雑色(ぞうしき。雑務をしていた下役人)とされている。また、一説によると盲目の琵琶法師だったという説もある。なお、能に「蝉丸」という謡曲がある。

謡曲。四番目物。各流。作者不詳。古名「逆髪(さかがみ)」。延喜帝の第四皇子蝉丸の宮は幼少から盲目だったので、帝は清貫(きよつら)に命じて逢坂山に捨てさせる。蝉丸は頭を剃り、琵琶をだいて泣き沈む。一方、髪がさか立つ病気を持つ姉の逆髪の宮は、狂乱の体でさまよい歩いて逢坂山に至り、蝉丸の琵琶の音にひかれて弟と再会する。二人は互いの身の不幸を嘆き、やがて名残りを惜しみながら別れる。

和歌としては新古今集に

あきかせになひくあさちのすゑことにおくしらつゆのあはれよのなか

よのなかはとてもかくてもおなしことみやもわらやもはてしなけれは

続古今集に

あふさかのせきのあらしのはけしきにしひてそゐたるよをすきむとて

がある。

 

百人一首の歌人‐38 猿丸大夫

「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」

(人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。)

猿丸太夫(生没年不詳)

伝説の歌人で、三十六歌仙の一人。元明天皇の頃の人など諸説あるが実際には不明。この歌も、古今集では「詠み人知らず」として紹介されている。鴨長明の歌論書「無名抄」には「田上(たなかみ)の下に曽束(そつか・現在の滋賀県大津市といふ所あり。そこに猿丸太夫が墓あり」と記されている。また、梅原猛は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い。さらに、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である。

猿丸大夫の和歌を掲げる。

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな(古今29)

石ばしる滝なくもがな桜花手折たをりても来む見ぬ人のため(古今54)

今もかも咲きにほふらむ橘のこじまの崎の山吹の花(古今121)

春雨ににほへる色もあかなくに香さへなつかし山吹の花(古今122)

五月待つ山時鳥うちはぶき今も鳴かなむ去年のふる声(古今137)

時鳥なが鳴く里のあまたあればなほ疎まれぬ思ふものから(古今147)

ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山のかげにぞありける(古今204)

わが門にいなおほせ鳥の鳴くなへに今朝吹く風に雁は来にけり(古今208)

萩が花散るらむ小野の露霜にぬれてをゆかむ小夜は更くとも(古今224)

秋は来ぬ紅葉は宿に降りしきぬ道ふみわけてとふ人はなし(古今287)

夕月夜さすや岡べの松の葉のいつともわかぬ恋もするかな(古今490)

しながどり猪名のふし原青山にならむ時にを色はかはらむ(猿丸集)

をととしも去年も今年もはふ葛の下弛ひつつありわたる頃(猿丸集)

来む世にも早なりななむ目のまへにつれなき人を昔と思はむ(古今520)

いで人は言のみぞよき月草のうつし心は色ことにして(古今711)

逢ひ見ねば恋こそまされ水無瀬川なににふかめて思ひそめけむ(古今760)

あらを田をあら鋤きかへしかへしても人の心を見てこそやまめ(古今817)

誰がみそぎ木綿つけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへて鳴く(古今995)

それぞれの歌に後の人の派生歌があるが、ここでは冒頭の百人一首の歌の派生歌を掲げる。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(*藤原俊成[千載])

ながめわびぬ立田の里の神無月紅葉ふみわけとふ人はなし(慈円)

おのづから紅葉ふみ分けとふ人も道たえそむる庭の霜かな(藤原家隆)

我がやどの紅葉踏分けとふ人も都になれぬさを鹿の声(〃)

立田山もみぢ踏みわけたづぬればゆふつけ鳥の声のみぞする(藤原定家)

秋山は紅葉ふみわけとふ人も声きく鹿の音にぞなきぬる(〃)

さを鹿の紅葉ふみわけたつた山いく秋風にひとり鳴くらむ(藤原雅経)

ちりしける詠はこれも絶えぬべしもみぢふみ分けかへる山人(後鳥羽院)

たつた山あかつきさむき秋風に紅葉ふみわけ鹿のなくらむ(土御門院小宰相)

おく山は木の葉ふみわけ鹿ばかり我が道まよふ音こそなかるれ(藤原為家)

なく鹿の声聞くときの山ざとを紅葉ふみ分けとふ人もがな(宗尊親王)