名作の楽しみ‐570 方丈記 鴨長明 柳瀬一雄訳注
日本三大随筆の最後の「方丈記」を読んだ。かの有名な冒頭の部分。中高時代古文で読んだときは勉強の意識が強く深く味わうことが出来なかったが、その後読み返して深い感動を覚えたことを思い出す。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
時は鎌倉時代前期、2012年、鴨長明58歳の時に書き始められた、このあまりにも有名な冒頭文。そこにこの随筆の全てがあるような気がする。それは、以下の天災・飢饉の記述が前半部分にあることが大きい。
天災・飢饉
安元の大火
安元3年4月28日(1177年5月27日)午後8時頃、
都の東南で舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火し、
瞬く間に火は都の西北に向かって燃え広がり、
朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰した。
治承の竜巻
治承4年(1180年)4月、中御門大路と東京極大路の交差点付近で、
大きな竜巻が発生し、家財家具、すべての物をのみ込み宙を舞った。
養和の飢饉
養和年間(1181-82年)2年間にわたって飢饉があり多くの死者が出た。
旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、
諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲った。
元暦の地震
元暦2年7月9日(1185年8月6日)、大きな地震が都を襲った。
これは貴重な記録文だという。
そして、後半部分の、世の無常を痛感した鴨長明が、出家し日野山に約3m四方の方丈の庵を建て、そこで残された生涯を送ることを決意する。心を煩わすこともない静かな生活のなかで、それに徹しきれない自分を見出すことになる。
「おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに五乍を鰹たり。仮の庵もややふるさととなりて、軒に朽ち葉深く、土居に苔むせり。おのづから、ことの便りに、都を聞けば、この山にこもり居てのち、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた闘こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。ただ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。かむなは、小さき貝を好む。これ身知れるによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るるが故なり。われまたかくのごとし。身を知り、世を知れれば、阪はず、わしらず。ただ静かなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす。」
「そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向かはんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま、草庵を愛するも咎とす。閑寂に着するも、さはりなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。
静かなる暁、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひていはく、「世を遁れて、山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。すみかは、すなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、たもりところは、わづかに周利槃特が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賎の租いの、みづから悩ますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか」そのとき、心さらに答ふることなし。ただかたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して止みぬ。
時に建暦の二乍、三月の晦ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。」
じっくり読めば読むほどに味が出てくる文章というものはこういう文章であるとつくづく思った。