名作の楽しみ‐568 清少納言 枕草子 | 松尾文化研究所

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名作の楽しみ‐568 清少納言 枕草子

 NHKの大河ドラマ「光る君へ」を見ている。紫式部が主人公の物語だが、あまりに歴史観とずれているので少々苛立ちを覚えている。その中で、清少納言が光を放っている。香炉峰の雪は清少納言得意満面の段だが、彼女が御簾を挙げ、雪を中宮定子に見せる場面が登場し、定子と清少納言の深い関係を示し、それが枕草子を生み出したことを考えると胸高鳴る思いがするのである。勿論、最初の段「春はあけぼの、ようよう白くなり行く山際・・」の名文は深く日本人の心に残っており、鋭い観察力が生み出した枕草子は源氏物語同様永遠に残る傑作なのである。そこで、もう一度じっくりこの本を読む

 最初の四季の美しさを描いた段は、簡潔で何度読んでもいいものである。こうした自然描写と当時の人間描写、そして、中宮定子のサロン風景から成り立ち、鋭い描写と表現力で当時の様子を生き生きと描いていて、何度も読み返したい作品である。訳者の大庭みな子の明快な訳と清少納言の素晴らしさを引き出す解説がいい。印象に残った段を記述する。

第24段女の生き方 「先々の望みもなく、ただ男にすがるような生き方をしている女を見ると、イライラして腹が立ってしまう。きちんとした家の娘なら、家の中にばかり閉じ込めておかず、外に出して、社会も見せた方がよい。宮仕えして内侍のすけなどしばらくつとめてみたらどうだろう。」時代は違うが現在にも十分通じる考え方であり、清少納言の考え方の凝集されたものかもしれない。

第26段いやな、にくらしいもの「いやな、憎らしいもの。急いでいることがある時やって来て、長話する客。どうでもよい人なら「また後で」といって追い返すこともできるけれども、そうもできない人は全く憎らしいといったらない。・・なんということもない人が、得意になってペラペラしゃべり建てたり、火鉢や囲炉裏端に、手の裏をひっくり返しては、しわを伸ばし、火にあぶったりしているのを見るとむかむかする。・・何かというと人のことをうらやんで、愚痴を言い、人のうわさ話ばかり大好きで、ちょっと聞きかじったことを昔から知っていたことのように人にまき散らすのも嫌なものだ。・・引き戸を手荒く開けるのもいやだ。・・人が話しているのに、横から口を入れて一人で喋り捲る者。出しゃばりは、子供でも大人でも嫌なものだ。・・「大庭評:目に見えるような鮮やかな描写だ。これと全く同じ人たちの姿は現代にもそこら中にいる。女の哀れ深さも、男のいじましさもその無作法なふるまいの中に鮮明である。」

第30段:過ぎた日の恋しく懐かしいもの「過ぎた日の恋しく懐かしいもの。祭に使った枯れた葵。雛祭りの道具。本の間に挟まったままになっていた藤紫や、薄紫の布の断ちくず。もらったとき、たいそう心を動かされた手紙を、雨など降ってすることもないような日に見つけた時。去年の扇。「大庭評:わずかな行の周辺から立ち昇って歩き出す風景の数々」

第40段:花の咲く木でなくても「花の咲く木というのではないが、木は楓、桂、五葉の松。たそばの木は品がないが、花の咲く木が散ってしまって、緑になってしまっても、ときもわかずにこい紅の葉をつややかに思わぬ青葉の中からのぞかせているのはよい。・・・「大庭評:清少納言の語感、色彩感、古歌、物語、日常の風景から連鎖的に浮かぶものが、音楽的、絵画的に連ねられているが、読者はこれをきっかけに、さらに自由な連想を広げるのがよい」

第42段:上品に美しいもの「上品に美しいもの。薄紫に白いかざみ。雁の子(かるがもの卵)。けずり氷に甘茶をかけて新しい金の椀に入れたさま。水晶の数珠。藤の花。梅の花に降りかかった雪。イチゴを食べる美しい幼児。「大庭評:色彩感覚は抜群である。イチゴの実の赤さと幼児の肌の美しさが、梅の花に降りかかった雪の後に連なって目に浮かぶ」

第76段:細殿にゆきかうもの「内裏の局は細殿が一番面白く、色々なことがある。御殿と御殿をつなぐ廊下の片側が局と呼ばれる女房の部屋で、女房達が控えている。しとみという上下に分かれた一対の部屋仕切りの上の方を開けとくと、風が入っても夏もたいそう涼しい。冬は雪や霰などが風交じりに入ってくる。狭いので子供などが訪ねてきたりするとは、不都合だが、屏風の内に隠しておくと、狭いので普通の局のように高笑いして騒ぐこともない。昼はいつも気をつかっていなければならず、まして夜はゆっくりもしていられないのがかえって面白い。・・・「大庭評:細殿の局に控える女房と、そばを通る君達がお互いになんとなく気を引きあって、戯れの軽口をたたくさまが目に浮かぶようだ。大宮人の暮らしというものは信じられないくらい開放的で、開放的でありながら、暗に約束事や越せない線もあるらしく、このやり方は現代の世でも同じことかもしれない。」

第99段:ほととぎすの声をききに「雨ばかりでうっとうしい日が続き、退屈していたのでほととぎすを聞きに行ったとき話。皆我も我もということになった。枕草子の中でも長い方なので大庭評のみにする。いかにも清少納言を思い浮かばせる段である。清少納言の置かれた立場もだが、女房という役、宮廷のさま、后のサロン、そのサロン周辺の男性像、ひいては権力の周辺に集まる人間のさまが生き生きと目に浮かぶ。才気のある、華やかな女性たちに話題をつくらせ、そうした女房たちに自分を売り込もうとする涙ぐましい男性たちの姿。それらの人々が何かのきっかけで権力を失った人物の周辺から、どうやって遠ざかるのであろうかということも予感させるものがある。中宮定子の才能のある女房達に気をつかいながらも、どのように立ち振る舞わせていたかも目に見える。

第109段:見苦しいもの「見苦しいもの。着物の背縫いを片側によせて着た人。襟を脱いで投げ首に着た人。珍客の前に子供を負って出てくる人。法師や陰陽師が神官の真似して三角形の紙冠をつけてお祓いしているさま。・・夏に昼寝している姿などは身分のある人でもあれば風情もあろうが、不器量で、てらてら光るむくんだ顔はゆがんでみっともないものだから、恋人同士、相手に顔を見られてはお互いにげんなりしてしまう。痩せて色の黒い人が、生絹の単衣を着たのも似合わない。「大庭評:かなり露悪的で意地悪な言い方で、当時の身分関係を思わせる感覚がよくわかる。不快な感じ、違和感があったとすれば、その時代を創造して面白がるのが古典の楽しみ方だろう。」

第115段:いつもと違って聞えるもの「同じなのに、いつもと違って聞えるもの。正月の車の音。また、鳥の声。明け方の咳。同じく明け方の音楽。「大庭評:何ということもないわずかな行だが、音の世界をこれだけ簡略に文字で引き出せるのは、名文としか言いようがない。」

第124段:はずかしいもの「はずかしいもの。プレイボーイの心のうち・・・男というものは相手の女が気に入らず、もどかしい思いをしている時でも、面と向かえば決して口に出してそうといったりしないものだし、女についたよりたくなる心を起こさせる。まして情も深く好ましいと思える評判も高い男性はひととおりではない心のいれようを女に見せる。心の中に秘めておけばよいことでもこちらのことはあちらにいい、あちらのことはこちらにというぐあいにしゃべってしまう。女が、自分のことだけ特別に思ってくれているのだわ、などとうぬぼれているのは、はずかしい。・・・「大庭評:清少納言が男性を手厳しくぼんぼんやっつけるのは宮仕えをして、男性の性質をよく見極めているからだろう。男性に点が甘くなく、そのやり方を全て白々とみているから、おぼれることなく、男性側からみれば可愛げない女だったかもしれない。とはいえ、キラキラした才気があり、頭もよいし、博学だし、話も面白かったであろうから、自信のあるよくできた男なら、相手にするものも少なくなかっただろう。当然、男性経験は豊かでもあったろう。こうした観察、店の辛さは異性をよく知っているからこそ言えるので、さりげない言い方のなかには、そこはかとない、悲しみもあり、それでいて妙な感傷に流れず、深みのある段といえよう。」

第129段:あの日の道長さま「中宮定子の父親道隆が関白だったころ、兄の伊周ともども中宮定子の清涼殿にやってきた。そのとき道長はさっとひざまずいたことを中宮定子に何度も言ったので「あなたは道長殿がごひいきなのね」と笑ったという話。「大庭評では、この段は、104段とともに、在りし日の道隆の栄華と中宮定子の華やかさの回想であるが、その後の道長の異性に重ねて、さりげない時の流れを最後の二、三行に表しているところが、複雑な思いにつながっている。権力者の前につと跪く者が、その日のことを決して忘れず、やがてその権力者になりかわったであろうということにも光が当てられているとしている。

第130段:九月の雨上がりの朝「九月ごろ、一夜ふりあかした雨が、今朝は上がって、朝日が前庭の植え込みのこぼれるばかりにぬれたところにさしかかっている。竹を菱形に組んで編んだ垣や軒にかけられた蜘蛛の巣が所どころ破れて、雨がかかり玉を連ねたように見える。・・・「大庭評:自然描写めいた文章が、ちゃんとした構成の中にところどころ程よく配されているのが枕草子の特徴だが、その自然描写は単なる自然描写ではなく、人の心が重ねられている面白さである。」

第143段:中宮様からのお便り「関白道隆が亡くなり、世は変わってしまい、何となく騒がしい事件がおき、宮様の周辺はお寂しくなった。私にも面白くないことがあって、長らく自宅に引きこもっていたが、やはり宮様の御身の上が気遣われた。・・・「大庭評:華やかさの頂点から寂しい境遇に身を置かれることになる、悲運の中宮を取り巻く女房達の面影が鮮やかである。」

第166段:近いようで遠いもの「近いようで遠いもの、御所のすぐそばのお祭りはかえってめったに行かない。仲の良くない兄弟や親族。鞍馬の九十九折という道。折れ曲がっているのですぐそこなのに、なかなか行きつかない。大晦日と正月一日の間。

第184段:初めて御殿に上ったころ「宮様の御殿に初めて上がったころは、まだ何もわからず、恥ずかしいことばかりで涙がこぼれそうな時も多く、夜ごと参上して三尺の御几帳のうしろにかしこまっていた。宮様は絵など取り出して見せてくださるのに、恐れ入っててもさし伸ばせないありさまだった。・・・たいそう寒いころで、袖口からわずかに見えるお手が匂うばかりの薄紅梅色なのをいいようもなく美しいと拝見した。何もかも珍しい新しく仕えたばかりのものの目にはこのような美しい方がこの世にいらっしゃたのかと夢見心地だった。・・・「大庭評:宮仕えにあがったころの思い出に絡めて、宮廷サロンのさまが鮮やかに描かれている。筆跡、絵、詩歌の引用による会話のやりとり。日本文化の育ってきたさまが見える。」

第223段:五月の山歩きの楽しさ「五月のころ山里を歩くのはとても良い気分だ。草木の葉も水も青く、草の繁った騎士を牛車でゆくと、深くはないが草の下を流れる水が、しぶきをあげて春らしい。車の左右の垣の枝が手に触れるように中に入るのを、折ろうとするがなんともゆきすぎてしまうのが残念だ。蓬の香りが、回る車の輪にふっと舞い上がり、顔近くをよぎるのが何とも言えない。「大庭評:回る牛車に蓬の香りの舞い上がる名高いくだり。」

 まだまだ、印象深い段はあるが、このあたりで終わりにしたい。ゆっくり読んでみて、枕草子は源氏物語に匹敵する文学作品だと思った。あとは、徒然草などとの比較をしてみたいと思っている。