京都嵐山百人一首歌碑巡り‐2 | 松尾文化研究所

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京都嵐山百人一首歌碑巡り‐2

 昨日は、京都駅近くのホテルに泊まり、9時半ごろホテルを出て、地下鉄で四条で阪急電車に乗り換え、さらに桂で乗り換え、嵐山に行った。なぜそのような路線を選んだかというと歌碑のある嵐山東公園に近いからである。まずはそこの歌碑を見て、渡月橋を渡り、嵯峨野の野々宮、長神の社の歌碑を見るコースをたどるつもりである。

 まずは、昨日と反対側から見た桂川と渡月橋および嵐山の景色を掲げる。

 ところが、嵐山東公園の居所が分からない。桂川沿いに下流へ行くことは間違いないが、どのくらい歩いたらよいのか地図からは分かりにくい。整備された自転車道路があったのでその道を進むがなかなかそれらしき公園がみえてこない。もう少し行き着く場所まで行ったが、公園の様相を呈していないので引っ返そうと思ったが、その先にこんもりした林が見えたので、ともかく行ってみようとさらに進んだ。しばらく行くとそれらしき公園が見えてきた。入っていくと歌碑があり、ほっと胸をなでおろした。歌碑はあの後鳥羽上皇の「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」であった。

 次いで、小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立」

 次いで、大僧正行尊の「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」

 次いで、源兼昌の「淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めの須磨の関もり」

 ここで、その場を去り、渡月橋に向かったが、後から調べたところ、さらに奥に多くの歌碑が建てられている公園があったと分かった。少々残念な気持ちはぬぐえない。

 昨日同様、渡月橋から嵐電嵐山駅、さらには天龍寺から竹林の小径へと歩いて行ったが、道は主に外人と修学旅行生に覆われ、歩くのも難儀なほどであった。竹林の中の野宮神社があり、その先の野々宮地区に7首の歌碑があったので写真に収めた。

 入り口付近にかなり古い歌碑があり、天智天皇の「秋の田のかりほの庵の苫を荒みわがころも手は露に濡れつつ」であった。

 次いで、蝉丸のこれやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」

 次いで、陽成院の「つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞ積りて淵となりぬる」

 そこから落柿舎の近くを通り小倉山の方へ向かうと二尊院の手前に長神の杜地区があり、19種の歌碑があった。まずは中納言兼輔の「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」

 次いで、曾禰好忠の「ゆらのとを渡る舟人かぢを絶え行くへも知らぬ恋の道かな」

 次いで、儀同三司母 (藤原伊周の母)の「忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな」

 次いで、紫式部の「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな」

 次いで、寂連法師の「むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮」

 次いで、式子内親王の「玉の緒よ絶えねば絶えね長へば忍ぶることの弱りもぞする」

 次いで、後京極摂政前太政大臣(藤原良経)の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろにころもかた敷きひとりかも寝む」

 次いで、伊勢大輔の「いにしぇの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな」

 次いで、崇徳院の「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」

 次いで、持統天皇の「春すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山」

 最後に、山部赤人の「田子の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ」

 今回は、百人一首の歌碑に絞って京都嵐山から嵯峨野を歩いたが、人の多さに驚くとともに、こういう旅も悪くはないと思った次第である。百人一首はまだ40首足らずを紹介したのみ、最後の百首目まで続けたい気持ちで一杯である。