百人一首の歌人-32 天智天皇 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人-32 天智天皇

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」

(秋の田のそばの刈り取った稲の見張り小屋(仮の小屋)は、草を編んで葺いた簡素なもので目が粗いので、番をする私の着物の袖は夜露に濡れつづけていることだ)

 実はこの歌は天智天皇の歌ではなく、次の万葉集のよみ人知らずの歌が改作されて天智天皇の歌として平安時代の2番目の勅撰和歌集「御撰和歌集」に「題知らず天智天皇御製」の和歌として入集していて、その後百人一首に選ばれているとのことである。

「秋田刈る仮廬を作り我が居れば衣手寒く露そ置きにける」(秋の田に稲刈りの小屋を作り、私がそこにいると袖が寒く感じられるほど露が置いている)

天智天皇が行ったこととして最も有名なのは、大化元(645)年6月の大化の改新(乙巳の変)。当時「中大兄皇子という名であった天智天皇は、中臣鎌足(藤原鎌足)らとともに有力な豪族であった曾我氏を打倒し、次々と政治改革を行っていった。中国の律令制を参考にしながら公地公民制、つまりすべての土地と人民を公(天皇)のものとする制度を設けて中央集権化を進め、天皇の権力を強めた。671年、天智天皇は子の大友皇子を太政大臣として後継者にしようと考えたが、同年12月、それが整う前に崩御してしまった。残された子の大友皇子は結局天皇になることはなかった。天智天皇の同母弟・大海人皇子が皇位をめぐって争い、敗れてしまったのである。この古代最大の内乱と呼ばれる「壬申の乱」で勝利した大海人皇子はのちに天武天皇となった。

天智天皇のほかの歌

―中大兄の三山の御歌

  香具山は 畝傍を善しと 耳成と 相争ひき

  神代より かくなるらし 古昔も しかなれこそ

  現身も 嬬を 争ふらしき(13)

反歌

  香具山と耳成山と戦ひし時立ちて見に来し印南国原(14)

  綿津見の豊旗雲に入日さし今宵の月夜きよく照りこそ(15)

―天皇の鏡女王に賜へる御歌一首

  妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺に家居らましを(91)

―鏡女王の和へ奉れる歌一首

  秋山の樹)の下隠り行く水の吾こそ勝らめ思ほさむよは(92)