百人一首の歌人-30 慈円
「おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖」
(身の程もわきまえないことだが、このつらい浮世を生きる民たちを包みこんでやろう。この比叡の山に住みはじめた私の、墨染めの袖で。)
前大僧正慈円(1155~1225年)
法性寺関白藤原忠通の息子。13歳で出家し、37歳の時に天台宗の座主(比叡山延暦寺の僧侶の最高職で首長)となった。法名が慈円でおくり名が慈鎮(じちん)。日本初の歴史論集「愚管抄」の作者でもある。
愚管抄は、三大史論書「愚管抄」北畠親房の「神皇正統記」、新井白石の「読史世論」の一つ。愚管抄を読んだ。
最初、中国の年代記が登場、天地開闢の後最初に現れたという盤古から始まり、三皇、五帝、三王(夏、殷、周)、十二諸侯、六国、秦、漢、後漢、三雄、晋、南朝・北朝、隋、唐、五代、大宋までを列挙している。
次いで、皇帝年代記が登場。神武天皇から第五十代桓武天皇までが述べられ、次いで、五十一代、平城天皇から八十四代順徳天皇を経て、今上天皇仲恭天皇までがやや詳しく述べられている。現天皇は百二十六代代目だから3分の2の天皇が登場したことになる。ここでは天皇だけでなく、摂政関白をはじめとする政治の中心人物が述べられ、さらに天台座主が加えられている。当然、現代の歴史観は古事記、日本書紀をはじめとする国の公式の記録がベースとなっているが、この愚管抄も貴重な記録としてベースの一つになっているのであろう。付録の7巻では、日本の政治史を概観して、今後の日本がとるべき政治形体と当面の政策を論じていて、興味深かった。即ち、彼の時代に台頭してきた武士の政治と平安時代に継続してきた摂関政治を正当化し、摂関家と武家を一つにした将軍制が末法時代の道理として必然的にされるべき時であると論じ、承久の乱を起こした後鳥羽上皇を批判した。天台座主として現実を冷静に直感して、この名著を書いたことは大いに評価されるべきだと思った。
一方、歌人としては、新古今和歌集や千載集に多く見られる。以下に掲げる。
あまのはら富士の煙の春のいろの霞になびくあけぼののそら
むすふ手に影みたれゆく山の井のあかても月のかたふきにける
身にとまる思を荻のうは葉にてこのごろかなし夕ぐれの空
鳴く鹿の聲に目ざめてしのぶかな見はてぬ夢の秋の思を
木の葉ちるやどにかたしくそでのいろをありともしらでゆく嵐かな
ふるさとを戀ふる涙やひとり行く友なき山のみちしばの露
東路の夜半のながめを語らなむみやこの山にかかる月かげ
わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり
わが戀は庭のむら萩うらがれて人をも身をあきのゆふぐれ
野邊の露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻の上風
見せばやな志賀の唐崎ふもとなるながらの山の春のけしきを
須磨の關夢をとほさぬ波の音を思ひもよらで宿をかりける
山ざとに獨ながめて思ふかな世に住む人のこころながさを
岡のべの里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風
頼み来しわが古寺の苔の下にいつしか朽ちむ名こそ惜しけれ
思ふことなど問ふ人のなかるらむ仰げば空に月ぞさやけき
やはらぐる光にあまる影なれや五十鈴河原の秋の夜の月
やはらぐる影ぞふもとに雲なき本のひかりは峰に澄めども
わがたのむ七のやしろの木綿だすきかけても六の道にかへすな
おしなべて日吉の影はくもらぬに涙あやしき昨日けふかな
願はくはしばし闇路にやすらひてかかげやせまし法の燈火
いづくにもわが法ならぬ法やあると空吹く風に問へど答へぬ
いにしへの鹿鳴く野邊のいほりにも心の月はくもらざりけり