百人一首の歌人-28 能因法師 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人-28 能因法師

「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」

(山風が吹いている三室山の紅葉(が吹き散らされて)で、竜田川の水面は錦のように絢爛たる美しさだ。)

 能因法師(988~1050)

肥後守橘元の息子で、俗名はたちばなのながやす。大学で詩歌を学び文章生となったが、26歳の時に出家する。最初の法名は「融因」。摂津国古曾部(こそべ。今の大阪府高槻市)で生まれ、そこに住んだので「古曾部入道」などとも呼ばれる。東北や中国地方、四国などの歌枕を旅した漂泊の歌人でもあった。

「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」

有名な逸話が『古今著聞集』にある。

あるとき、能因はこの歌を詠んだ。この歌の出来映えに満足したが、能因は白河を旅したことがなかった。そこで自分は旅に出たという噂を流し、家に隠れこもって日焼けをし、満を持してから発表したという。

能因法師が詠んだこの歌によって、白河の関は歌枕として一躍脚光を浴びることとなる。しかし白河の関そのものは廃止され、その所在も不明となってしまう。ただ陸奥の入り口という符丁として生き残り続けることになる。

松尾芭蕉の「奥の細道」に以下の記述がある。

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとヾむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとヾめ置れしとぞ 。

能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。

所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹くと申しけむ折いつなりけむと思ひ出でられて、なごり多くおぼえければ

白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり

能因法師の和歌を掲げる。

よそにてぞ霞たなびくふるさとの都の春は見るべかりける(後拾遺39)

心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを(後拾遺43)

桜咲く春は夜だになかりせば夢にもものは思はざらまし(後拾遺98)

世の中を思ひすててし身なれども心よわしと花に見えぬる(後拾遺117)

山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける(新古116)

わがやどの梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりぬる(後拾遺167)

夏草のかりそめにとて来しかども難波の浦に秋ぞ暮れぬる(新古547)

ねやちかき梅のにほひに朝な朝なあやしく恋のまさる頃かな(後拾遺788)

虫のねも月のひかりも風のおともわが恋ますは秋にぞありける(能因集)

命あれば今年の秋も月はみつ別れし人にあふよなきかな(新古799)

瑞垣にくちなし染めの衣きて紅葉にまじる人や祝り子(新勅撰573)

思ふ人ありとなけれど故郷はしかすがにこそ恋しかりけれ(後拾遺517)

よそにのみ思ひおこせし筑波嶺のみねの白雲けふ見つるかな(新勅撰1303)

世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして(後拾遺519)

わび人は外つ国ぞよき咲きて散る花の都はいそぎのみして(能因集)

月草に衣はそめよ都びと妹を恋ひつついやかへるがに(能因集)

夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり(新古643)

幾とせにかへりきぬらむ引きうゑし松の木蔭にけふ涼むかな(能因集)

更級や姨捨山に旅寝してこよひの月を昔見しかな(新勅撰282)