名作の楽しみ-393 立原道造詩集
詩はどちらかと言えば苦手だ。だから余りここには登場しない。父の残した書籍を眺めていたらこの詩集が目に飛び込んできた。父は若い頃、詩人になりたかったそうだ。実際に父の詩を読んだことがあり、なかなかのできだと思った。
立原道造。1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。父は立原貞次郎(婿養子)、母は立原登免(通称 光子)。次男として生まれる。先祖には立原翠軒、立原杏所などがいる。学歴は東京帝国大学工学部建築学科卒業。学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。賞歴は、辰野賞3年連続受賞、中原中也賞受賞。
風が・・・:
郵便局で 日が暮れる
果物屋の店で 灯がともる
風が時間を知らせて歩く 方々に
田園詩:
小径が、林のなかを行ったり来たりしている、
落ち葉を踏みながら、暮れやすい一日を。
僕は:
僕は 背が高い 頭の上にすぐ空がある
そのせいか 夕方が早い!
愛情:郵便切手を しゃれたものに考えだす
以上は、「日曜日」という題の詩の中から特別短いものを選んで示した。彼のひらめきが打ち付けられている感じだ。詩とはそんなものかもしれないと感じ入った。
その他、「萱草に寄す」「暁と夕の詩」「優しき歌」、「その他」という題で括られている。
詩というのは最初の詩の印象が強く、次第に詩人の癖のようなものが分かってきて、最初ほど印象に残らなくなっていく。つまり同じような詩がこれでもかこれでもかと続くのでマンネリ化していくのである。しかし、もう一度読み返してみると後半でも印象に残る詩がいくつでもあることが分かる。この人の詩はその傾向が強い。つまりマンネリ化が余り起こっていないのである。それだけでも凄いと思う。私も昔詩を作った。最初はいいのだが、次第にマンネリ化していくことに耐えられなくなってやめた経験がある。
最初の方の詩で印象に残った詩と後半で印象に残った詩をいくつかあげてみたい。
最初の方の「萱草に寄す」から、SONATINE No1
わかれる昼に:
ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の実を
ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへって行く故里が どこかにとほくあるようだ
何もみな うっとりと今はしんせつにしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない静かさで
単調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたってゐたままに
弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ
ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を嚙んで 私は憤ることが出来ないやうに
中程の詩で印象に残ったもの。「その他」の
雲の祭日:
羊の雲の過ぎるとき
蒸気の雲が飛ぶ毎に
空よ おまへの散らすのは
白い しいろい絮の列
帆の雲とオルガンの雲 椅子の雲
きえぎえに浮いているのは刷毛の雲
空の雲・・・空の雲よ 青空よ
ひねもすしいろい波の群れ
ささへもなしに薔薇紅色に
ふと蒼ざめて死ぬ雲よ 黄昏よ
空の向こうの国ばかり・・・
また或るときは蒸気の虹にてらされて
真白の鳩は暈となる
雲ははるばる 日もすがら
中程の詩でもう一つ 「その他」から
民謡-エリザのために-
絃は張られてゐるが もう
誰もがそれから調べを引き出さない
指を触れると 老いたかなしみが
しづかに帰ってきた・・・小さな歌の器
或る日 甘い歌がやどったその思い出に
人はときをりこれを手にとりあげる
弓が誘ふかろい響―それは奏でた
(おお ながいとほいながれのあるとき)
―昔むかし野ばらが咲いてゐた
野鳩が啼いていた・・・あの頃・・・
さうしてその歌が人の心にやすむなと
時あって やさしい調べが眼をさます
-水車よ 小川よ おまへは美しかった
俳句が一句のっていた。
時雨ふる京の泊まりは墓どなり
「田中一三に」の3番目の詩の題名として.その詩は以下の通り。
秋雨や秋晴れや色々な気候を
心のなかにこっそりと用意して
そしてそれをひとつずつためして
青い空に鳶の輪を描かしてみたり
小竹の揺れる東窓に手紙をしたためたり
小夜更けて降りはじめたしめやかな音に
思ひまうけないほどすなほに驚いたり
・・・暦と絵図とをいつか心のなかに畳みこんで
そしていつの間にか おまえとも
その都とも 別れてもう帰って来ている
ぢきに忘れるだろうと
をりをりその日々を思い出しながら
それは不思議にうるほうてゐて
私の心の奥に遊び恍うけた落着きが
わたしの場所に
きれいに汚れを洗ってさわやかにすぎるのだ
まだまだ印象深い詩はあった。というか彼の詩の全てが私の心に印象を残していった。安らぎ、哀しみ、寂寥と言った感性が一つ一つの詩に込められていた。そして、時折美しい音楽が鳴っていた。美しい自然が浮かんでいた。過去、現在、未来と時が刻まれた。ひとの景色が滲んでいた。この詩を座右に置き、時折、寝転んで、さっと開いたところを読んでいく。そんな光景が浮かんでくる。ぜひそうしたい。